福井城址      Fukui-jo Castle     23.May.2016         天空仙人の名城めぐり


福井城址 写真
「福井城址」

福井城址 写真
「福井城址」

福井城址 写真 福井城址 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

福井城址 写真 福井城址 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

福井城址 写真 福井城址  写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

福井城址 写真 福井城址 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

福井城址 写真 福井城址 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

福井城址  写真 福井城址  写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

福井城址 結城秀康公像 写真 福井城址 福の井 写真
「結城秀康公像」「福の井」
拡大 画像Click拡大 画像Click

福井城址

Fukui-jo Castle

福井県福井市大手

Oote,Fukui-shi,Fukui


福井城址のご案内

ここは、福井城の本丸跡で、周囲の内堀は往時のままです。 福井城は慶長6年〜11年(1601〜06)に徳川家康の次男、 結城秀康によって築城されました。 秀康時代の福井城の建物は寛文9年(1669)に焼失してしまいましたが、 図は焼失以前の福井城本丸の様子を復元したものです。

藩の権威を象徴していたのが本丸の北西隅に聳えていた天守で、 高さが約30mという壮大な建物でした。 中央には藩政において最も重要な本丸御殿がありました。 北東・南東・南西の各隅間には3つの橋が建っていました。 南側の御本城橋が本丸への正式な通路で、この橋を渡ると、 本丸の正門である瓦御門がありました。 西側には屋根付きの御廊下橋もかかっていました。 現在の御廊下橋は平成20年に資料に基づいて再建されたものです。


福井城天守

福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長六年(1601)から約6年をかけて福井城(北庄城)を築城し、 本丸には壮大な天守が偉容を誇っていた。

残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、最下層の階高を高くとって二階分の床を張っており、 内部が五階になっている。 絵図では高さが、約二八メートルあり、天守台を含めると約三七メートルにもなる。

今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、 天守台の北半分に天守が建っていたのであろう。 四層五階の壮大な天守も、寛文九年(1669)四月の大火で焼失して以来、再建されることはなかつた。


結城秀康公(1574〜1607)

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、越前68万石の大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、 翌6年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設と、柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手した。 多くの民の力と汗に支えられ、およそ6年の歳月をかけて完成した城下は、 都市としての福井の原型をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。


福の井

福井の地名の由来と伝えられています。

井戸の底部までの深さ 5.7m

        水深 1.9m


福井城下

福井城下は、越前松平家、福井藩68万石の城下町として、江戸時代初頭に整備されました。 その頃、町の名は北庄と呼ばれており、 福井藩祖 結城秀康は、柴田勝家によって築かれた城下を改修・整備し、 慶長11(1606)年にはほぼ完成したといわれています。

城下の中心・本丸には四重五階の天守および三隅には櫓が築かれ、 本丸御殿(藩庁)や御座所(藩主の住居)が設けられました。 これを取り巻く形で二ノ丸、三ノ丸と同心円状に堀がめぐらされ、 人工的に掘削された北側と西側の堀の内に侍屋敷の大半が置かれています。 ー方、 町人の屋敷は西側の堀の外(現在の通称・片町や呉服町など) に集中させられました。

三代藩主 松平忠昌は、町の名を北庄から福居庄と改め、 18世紀初頭には現在の福井に定まりました。 この間、城下は二度の大火に見舞われましたが、 特に寛文9(1669)年の大火は、城下の足羽川北側の大半を焼くもので、 本丸の天守も全焼してしまいました。

その後、福井藩は大幅に藩領を減らすこどになりましたが、 徐々に石高を戻し、福井の町は幕末には32万石の城下町として、 人口約3万数千人を抱えていたといわれます。 明治維新後は、城下の建物のほとんど全てが取り壊され、堀も埋められましたが、 この本丸周辺だけは往時の姿をしのばせています。


旅のかけらのIndex天空仙人わーるどさくらのかんづめ日本の名城


Copyright © 2017 I.HATADA All rights reserved.

inserted by FC2 system