伊賀上野城
     Igaueno-jo Castle
             7.Nov.2017
            天空仙人の名城めぐり
伊賀上野城 Official Page
伊賀上野城 写真
「伊賀上野城」

伊賀上野城 写真
「伊賀上野城」

伊賀上野城 写真
「伊賀上野城」

伊賀上野城 写真
「伊賀上野城」

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「伊賀上野城」

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「伊賀上野城」

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「高石垣」

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「高石垣」

伊賀上野城 写真

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「伊賀上野城 天守閣」
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伊賀上野城 写真 伊賀上野城  写真
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伊賀上野城 写真 伊賀上野城 写真
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伊賀上野城 六段壁 写真 伊賀上野城 六段壁 写真
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伊賀上野城 六段壁 写真 伊賀上野城 六段壁 写真
「忍び井戸」
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伊賀上野城 六段壁 写真 伊賀上野城 六段壁 写真
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伊賀上野城 写真 伊賀上野城 写真
「高石垣」「高石垣」
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伊賀上野城 土岐門 写真 伊賀上野城 写真
「白鳳門」
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伊賀上野城 写真 伊賀上野城 写真
「藤堂高虎公座像」「藤堂高虎公像」
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「忍びの者」「ゆるキャラ た伊賀ーくん」
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伊賀上野城

Igaueno-jo Castle

三重県伊賀市上野丸之内106

106,Ueno-Marunouchi,Iga-shi,Mie


上野城の沿革

慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が、伊賀・伊勢の地へ転封、大坂城の豊臣秀頼に対する拠点の城として、 慶長16年正月、筒井氏の城を西に拡張、その時日本一高いといわれる高石垣を築いた。

翌17年9月、当地を襲った台風により五層の天守閣は倒壊、 大坂夏の陣で徳川方の勝利に終わったので天守閣の再建はされなかったが上野城は伊賀国の城として存続、 城代家老が置かれ明治まで存続した。

今の天守閣は昭和10年(1935)10月、地元の名士川崎克氏により復興、伊賀文化産業城と称した。 天守閣一階には甲冑・武具・伊賀焼きを展示、二階には天守閣復興者川崎克氏の書画や伊賀焼・藩主藤堂家の調度品などを展示。 三階には横山大観をはじめとする有名人の書画46点の大色紙が格天井に飾られている。


藩祖、藤堂高虎は、慶長13年(1608)八月、伊予の国から伊賀国十万石、伊勢国の内で十万石、伊予国の内で二万石に移封となった。 (のち三十二万三千九百五十四石余りとなる)

高虎は徳川家康の信任が厚く築城の名手でもあった。 前城主、筒井定次が築いた上野城の本丸を慶長16年(1611)に豊臣方に備えて西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらした。

5層の天守閣は建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風雨のため倒壊した。

しかし、慶長19年(1614)の大阪冬の陣と翌年の夏の陣で徳川方が勝利し、幕府は諸大名の城普請を禁じたためこの城では天守閣が再建されないまま城代家老が置かれて伊賀国の城として幕末まで存続した。

現在の天守閣は、当地出身の政治家、川崎克氏が文化産業振興の城として復興を志し、 熊野の山林家、奥川吉三郎氏らの協力を得て私財を投じて資金を調達し、昭和10年(1935)10月18日に落成した。

「伊賀文化産業城」と名付けられ、その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれ親しまれている。


忍び井戸

「大阪城の攻略が不首尾に終ったときは上野城に籠城する」という秘命を徳川家康からうけた藤堂高虎は、 当時城郭構築の随一とうたわれた西島八兵衛尉之友を奉行として城郭の縄張りをはじめた。

八兵衛尉は三カ年間の籠城に耐えるためには最後の守備陣である天守に兵糧と水、塩とを無盡に確保することであると判断して小天守内に井戸を穿った。

丘の上に構築した城郭での悩みは水脈の断絶である。 浅井戸では水が湧かないので五十尺の深井戸を掘り、井戸側から横へ三カ所の隧道を穿って抜け穴とした。

抜け穴は城を中心に四方に通じ、その長さ一里におよび、兵糧の搬入、外部との連絡、援軍を城内に引き入れる路でもあった。 落城した場合も、この通路を利用して忍びの者をはなち城内を攪乱して奪取することも考えて設計された。

とくに秘密を保持するため抜け穴の出口と小天守に忍びの者を常駐させ、井戸の監視にあたらせ、藩士といえども井戸をのぞくことを許されなかった。


藤堂高虎公

弘治2(1556)、近江国犬上郡在士村に生まれる。 15才の時で浅井氏に仕え、姉川の合戦で初陣を飾った。 以来、各地を転戦し、天正4(1576)年木下秀長(豊臣秀長)に三百石で召し抱えらた。 天正13年(1585)紀州粉川で一萬石の大名となる。

その後伊予宇和島七萬石、関ヶ原合戦後、伊予今治20萬石となり、 慶長13年(1608)伊賀・伊勢22萬3千石、大坂の役後32萬3千余石に加増された。

藤堂高虎は、築城の第一人者として名高く、 上野・津城のほか、江戸・大坂・篠山城など20城余りの城の築城・修築を手がけている。 高虎は戦乱に明け暮れた武将ながら領民への気配りや人の和を大切にした人物で、 律儀な性格から徳川家康・秀忠・家光の三代に大きな信頼を得た。 日光東照宮・南禅寺楼門などを建立。寛永7年(1630)江戸柳原藩邸で逝去。

案内板より


伊賀上野城(白鳳城)の沿革

昔この高台に平楽寺とよぶ伽藍があったが、天正9年(1581)織田信長軍の侵攻にあって焼失した。 世にいう「天正・伊賀の乱」である。

この乱後、伊賀国主となった筒井四郎定次は城塞の大修築を行ない、城下町の建設に着手した。 しかし、のちには重臣の暗闘のため、慶長13年(1608)失政を理由に改易となり、 藤堂高虎が伊予国から移封されて伊賀・伊勢の領主となった。 高虎は城郭を拡張、とくに大阪方(豊臣方)に備えるため、西方には広大な高い石垣をめぐらした。 (この石垣の高さは日本一といわれている)また城下町を南へ移して、完全に武装した軍備の町を建設した。

したがって、当時の築城・軍略の大家、高虎によって、めんみつに設計され形造された 伊賀上野の町は、現在日本でもごく小数の貴重な歴史的な町といわれている。

天守閣は慶長17年(1612)工事半ばにして暴風雨のため倒壊したが、 昭和10年(1935) 川崎克氏(地元出身代議士)が私財を投じて復興、現在の上野城を再建した。

登閣券 より


伊賀上野城

小さな盆地の伊賀の国は、“忍者の里”ともいわれ、その中心は上野の城下町です。 町の北部の高台には白亜三層の天守閣が優美、端麗な姿を誇り、「白鳳城」ともよばれ親しまれています。

三つの天守閣 〜伊賀上野城の沿革〜

一、天正13年(1585)、伊賀の国を領した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。 豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は慶長13年(1608)、定次を改易した。

二、同年、伊予国今治城主であった藤堂高虎が伊賀・伊勢安濃津の城主となった。 高虎は筒井故城を西に拡張し、豊臣方に備えて高さ約30メートルの石垣を築いた。 しかし慶長17年(1612)、竣工直前の五層の大天守は暴風のため倒壊。 その後、大坂冬の陣、夏の陣での豊臣方の滅亡と、幕府の城普請禁止策とにより、 天守が再建されなかったが伊賀一国の城として城代家老による執政体制が幕末まで続いた。

三、現在の天守は、昭和10年(1935)に地元出身の代議士、 川崎克氏が私財を投じて純木造の復興天守を再建したもので、名称を「伊賀文化産業城」とした。

パンフレットより


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