安曇野・穂高 碌山美術館 
     Rokuzan Art Museum
         11.Nov.2006
          天空仙人の美術館めぐり

安曇野穂高 碌山美術館 Official Page
安曇野・穂高 碌山美術館 安曇野・穂高 碌山美術館

「安曇野穂高 碌山美術館」

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安曇野・穂高 碌山美術館

長野県安曇野市穂高5095-1


LOVE IS ART,STRUGGLE IS BEAUTY.

− 愛は芸術なり、相克は美なり−

彫刻家 荻原守衛

日本近代彫刻の先覚者となった荻原守衛は、パリで絵画の勉強にとりくんでいたとき、 古典作品の模倣のような彫刻界にあって、常に新たなこころみを続けていたロダンの彫刻、 「考える人」に出合いその芸術性の高さに衝撃を受け彫刻家になることを決心しました。 守衛は幾度かアトリエを訪ね教えをうけながら、美術学校アカデミー・ジュリアンで彫刻の勉強に専念しました。 帰国した守衛は、姿形の細部にとらわれない生命感あふれる作品を制作しますが、 旧い日本の美術界からは当初受け入れられませんでした。 その中にあって絵画から彫刻に転じた若者が出るなど、真の芸術をめざす若者の心を捉えました。 しかし帰国後わずか二年余りで、日本の近代彫刻の最高傑作である絶作「女」(重要文化財)をはじめ、 十五点の珠玉の彫刻を残し30歳5ヶ月で急逝してしまいます。 守衛の求めつづけた「生命の芸術」(LOVE IS ART,STRUGGLE IS BEAUTY.)は、 彼の教えや影響を受けた優れた彫刻家によって引きつがれ、多くの傑作が生まれています。 その頂点である荻原守衛の彫刻は、時がたつほどに日本近代彫刻の金字塔として輝きを増しています。


荻原守衛(碌山)

1879(明治12年)12月1日

長野県南安曇郡東穂商村矢原の農家の五男に生まれる。

1894  15歳

東穂高禁酒会に入会、キリスト教に傾倒する相馬愛蔵・井口誓源治の彰響を受ける。

1896  17歳

家業を手伝うかたわら自已の生き方を求め、しきりに読書をする。心臓を病む。

1897  18歳

相馬愛蔵に嫁いだ良(黒光)の持参した油絵「亀戸風景」を見て感動、啓発される。

1899  20歳

明治女学校長巌本善治を頼って上京、画塾「不同舎」に入る。

1901  22歳

洗礼を受けて渡米。フェアチャイルド家で働きながら、ニューヨークの画学校で学ぶ。戸張孤雁(とばり こがん)を知る。

1903  24歳

渡仏し、パリの画学校に入る。

1904  25歳

ロダンの「考える人」を見て強い衝撃を受け、彫刻家になろうと決心する。 学資が尽き帰米する。再びニューヨークの画学校に入り、彫刻のためのデッサンや美術解剖学を勉強する。 高村光太郎、柳敬助と交わる。

1906  27歳 再びパリに渡る。アカデミー・ジュリアンで彫刻に専念する。

1907  28歳

夏ロンドンに行き、高村光太郎と美術館を巡乱エジプトの古代彫刻に感心を寄せる。 この頃から「磁山」を名のる。「女の胴」制作。ロダンを幾度か訪問し、教えをうける。 光太郎がパリを訪れ、製作中の「坑夫」を見て激賞する。 七年間の留学に終止符を打ち、帰国を決意。イタリア・ギリシャ・エジプトの美術を見て、帰国する。

1908  29歳

帰国後、京都、奈良を巡る。新宿に兄の支援を受けアトリエを新築する。 第二回文展に「女の胴」「坑夫」「文覚」を出品する。「文覚」のみ入選。中原悌二郎、 中村彝(つね)らが時々アトリエを訪れる。

1909  30歳

「デスペア」「戸張孤雁像」他制作。文展に「北條虎吉像」「労働者」を出品する。「宮内氏像」制作。 1910

「銀盤」制作。年末から続けていた「女」3月中旬完成する。 4月20日新宿中村屋にて突然吐血、22日永眠する(30歳5ヶ月)。生家の墓地に埋葬される。 5月、太平洋画会第八回展で「追悼展」が行われる。 秋の文展に「女」出品、文部省買い上げとなる。「宮内氏像」ロンドン日英博覧会に出品される。


■在京期

【鉛筆素描(不同舎時代)】

「不同舎」へは明治女学校の一角に小さな「深山軒」を建てて通う。 画塾では主に先輩から指導を受け基礎ができると、野外写生に出かけた。

■留学期

【波止場】

フェアチャイルド家の避暑に伴って行ったニューヨークから三百キロ北のニューポートと思われる。

パリのサロンで「考える人」を見た守衛は、彫刻家を志し、 帰米後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで彫刻のためのデッサンや美術解剖学の勉強を続ける。

【女の胴】

パリで制作した初期の作品、守衛は、脇の下から腰のあたりに落ちてくる線がうまく出たといっている。

【坑夫】

留学最後の作品。高村光太郎が是非持ち帰るように勧め『のびのびと[由に制作されて、 作家の内部から必然的に出てきた作品にみえる』と評する。

■ 帰国後

【デスペア】

女の絶望を表そうとした。 第3回の文展に出品したがポーズが悪いと採点されなかった。

宮内氏像:モデルの個性をつかむため初めに油絵を描き、それから彫刻を制作した。

【文覚】

帰国後の第一作。外形的な力強さが強調され、守衛は内的な力不足に不満を感じていた。

【北條虎吉像】

(重要文化財)

肖像彫刻の傑作。各部分が的確に写され細部まで神経が届き静かに深く重みのある市井の人として表わされている。

【女】

(重要文化財)

日本近代彫刻の最高傑作。 膝を付き後ろ手にしたボーズは上方への動きを誘引している。表情に見られる内的な情感が美しい。絶作。


その他の作家

■第一展示棟

荻原守衛と関係の深い優れた彫刻家高村光太郎・中原悌二郎・石井鶴三他の作品を展示し・日本近代彫刻の流れを展覧しています。

併せて友人の画家柳 敬助、斎藤與里らの作品を展示しています。

■第二展示棟

「自然は其の美を各人の掴み取りに任してゐる。手の大なる人は多く取り、小なる人は少なく取る。」

戸張孤雁の言葉が入口に刻まれている。守衛に関係する作家の彫刻、絵画作品を企画的に展示する。


碌山美術館は、日本の近代彫刻の扉を開いた、荻原碌山の作品と資料を保存し、公開するために1958年(昭和33年) 30万人の寄付と多くの支援によって誕生しました。

また碌山と関係の深い優れた一群の美術家たちの作品を併せて蒐集保存し、 日本近代彫劾の流れと展開を明らかにしようと努めております。

皆さんの力によって支えられてきましだ美術館が、更により多くの人々にとって、美を鑑賞し、 こころの安らぎを得る場所となるならば、これに越しだ喜びはありません。

碌山館(本館)

昭和33年開館。キリスト教に傾倒した碌山を象徴する教会風建築。 荻原守衛の彫刻全作品と資料を収蔵する。

第一展示棟

昭和57年開館。守衛の友人や系譜につながる高村光太郎、中原悌二郎、柳敬助、斎藤與里らの彫刻家や画家の作品展示。

グズベリーハウス

昭和42年、地元の教師、生徒などのボランティア作業で、枕木を使った校倉造りに建築される。ショップ、休憩室他。

第二展示棟

平成8年開館。入口に守衛の親友で彫刻家戸張孤雁の言葉が刻まれている。企画展示を主に、守衛につながる作家の作品を展示。

碌山美術館 パンフレットより


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