長崎 浦上天主堂(浦上教会)
           Urakami Tenshudo
             11.April.2004
           天空仙人の旅のかけら
長崎市公式観光サイト Official Page
長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真 長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真 長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真 長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真 長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

長崎 浦上天主堂(浦上教会) 浦島太郎像 写真 長崎 浦上天主堂(浦上教会) 浦島太郎像 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真 長崎 浦上天主堂(浦上教会) 写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

長崎 浦上天主堂(浦上教会)

長崎県長崎市本尾町1-79

1-79,Motoo-machi,Nagasaki-shi,Nagasaki


長崎 浦上天主堂(浦上教会)Urakami Cathedral

浦上天主堂の歴史と由来

浦上は、戦国時代の末ごろから、キリシタンの村であった。 その後 コ川幕府のキリシタン弾圧、近くは1868年(明治元年)浦上村民総流配が決定され、 名古屋以西の21藩に浦上信徒3,414人が流配された。

1873年(明治 6年) キリシタン弾圧は停止され信徒たちは帰村したが、 なによりも欲しかったのは、「神の家」魂のよりどころである天主堂であった。

1880年(明治13年) 信徒たちは旧庄屋屋敷を買収して仮天主堂とした。

1895年(明治28年) 長い弾圧と流配の打撃から生活の再建も充分でなかったので、 この年になってようやく天主堂の建立に着工、 主任司祭フレノ師(フランス人)が設計監督し、信徒たちは材料運搬などの労力奉仕のほか、 それぞれ分に応じた献金をした。 設計は石と煉瓦造りの壮大なロマネスク様式てあったが、資金難から工事はとだえがちで、 1911年(明治44年)フレノ神父は過労にたおれた。後任のラゲ神父(ベルギー人)が工事を続行したが、 早く完成するため屋根を木造瓦ぶきに設計変更した。

1914年(大正 3年) 20年の歳月を経て 赤煉瓦造りの天主堂が完成し、 3月17日浦上信徒発見の記念日、コンバス司教によって献堂式をあげた。 床面積1,162u(352坪)東洋一の大天主堂であった。

1925年(大正14年) 双塔ができて、2個の聖鐘がつるされた。着工から30年目であった。

1945年(昭和20年) 8月9日原爆被災により破壊焼失した。 信徒も12,000人のうち、8,500人が爆死したと推定されている。

1959年(昭和34年) 原爆被災前の天主堂をモデルとした鉄骨コンクリート造りの現在の天主堂が落成し、 11月1日ローマ教皇庁公使フルステンベルグ大司教によって聖別された。 床面積1,379u(509坪)。(設計施工 株式会社 鉄川工務店)

1962年(昭和37年) 1月1日大司教座聖堂(カテドラル)に指定された。

1980年(昭和55年) 完成後21年経過したこの天主堂はあちこち補修の必要にせまられていた。 ときあたかもローマ教皇様の訪日がきまりつつあり、有史以来初めてのこの慶事を記念して、 歴史性の高い原爆被災前の天主堂のように外装に赤煉瓦造り、窓は全部ステンドグラスにするなど 内装も立派に整備して10月完工した。(設計施工 株式会社大林組)

なお浦上は現在信徒枚8,500人、日本で一番、信徒数の多い小教区である。

銘板碑文より


旅のかけら飛べ天空仙人さくらのかんづめ日本の名城


Copyright © 2016 I.HATADA All Rights Reserved.

inserted by FC2 system