越前大野城 Echizen-Ohno-jo Castle 23.May.2016 天空仙人の名城めぐり
「越前大野城」 |
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「天守閣からの眺望」 |
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「武者登り」 | |
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「金森長近像」 | 「百間坂」 |
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金森長近 織田信長の武将です。軍功により天正3年(1575年)に信長から大野郡の3分の2を与えられ、 越前大野城を築城しました。越前大野城は平山城の形式で、亀山の山頂に本丸が置かれ、 亀山の東麓に二の丸や三の丸、内堀や外堀が配されました。 また長近は、城下町の建設も行い、亀山の東側に今の町割りの基礎となる街路や水路を整備しました。 本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、天正14(1586)年、飛騨国を与えられ、 大野から飛騨高山へと移り、その地で再び城と城下町を建設しました。 百間坂(ひゃっけんざか) 江戸時代、大野藩の侍たちが城の本丸へ行くには、 藩庁から亀山の山頂に通じる百間坂を必ず登りました。 今の百間坂以外の遊歩道は、明治時代以降に整備されたものです。 藩庁や御殿(藩主の居館等)のあった二の丸は、いま、学びの里「めいりん」の敷地になっています。 右の小道を行けば、百間坂を通って越前大野城に行くことができます。 |
「城門」 | 「お福池」 |
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Echizen-Ohno-jo Castle
福井県大野市城町3-109
3-109,Shiro-machi,Ohno-shi,Fukui
越前大野城跡(福井県指定史跡) 越前大野城は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡です。 織田信長の部将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。 越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、 天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。 江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれています。 本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。 江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775年)には本丸も焼失しましたが、 寛政7年(1795年)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。 越前大野城 沿革 天正3年(1575) 金森長近、織田信長より大野郡の3分の2の領地を与えられる 天正4年(1576) 長近、大野城の築城と城下町の建設を始める江戸時代初期には亀山頂上に本丸、 麓に二の丸・三の丸を配置する城郭ができあがっていたと思われる 安永4年(1775) 野口村(現在の大野市役所近辺)から出火、城下1400戸を焼く大火となり、亀山の本丸にも飛び火して焼失 寛政7年(1795) 焼失した本丸を再建 明治6年(1873) 明治新政府発布の廃城令「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」により本丸・二の丸・三の丸の城郭建造物は入 札にかけられ、取り壊される 昭和43年(1968) 大野藩士の子孫萩原貞氏の寄付により天守閣を再建した(資料がないため推定復元) 越前大野城 概要 大野城は亀山を利用して築かれた梯郭(ていかく)式の平山城でした。 亀山の山頂を削り平坦にして本丸をつくり、その東側に二の丸や三の丸などをつくりました。 また、南・北・東の三方には人工の外堀をめぐらしました。 東側の端には今も人工の外掘である百間堀の一部が残されています。 西方には赤根(あかね)川が流れ、各所に沼があり天然の堀として城の守りを固めました。 城の石垣は、戌山(いぬやま)城の城石を運んだという伝承が残っています。 また、犬山集落の中腹には岩石を砕いて運んだ跡も残されており、築城の石垣に使われたことを示しています。 ほかにも、付近の山々から多くの人々の力で運ばれたと思います。 石垣の積み方は、自然石をそのまま積む「野面積み」です。 野面積み 越前大野城の石垣は、野面積みという自然石を加工しないで積み上げる16世紀後半の古い形式の石垣です。 すき間に詰め石があるなど、外観は粗雑に見えます。 しかし、水はけが良いため、実はたいへん堅固な造りとなっています。 石垣の工法は「野面積み」から「打ち込みはぎ」や「切り込みはぎ」といった、石をたがねで加工し、 形を整えてから積みあげる工法へと移っていきます。 福井城や金沢城などの石垣は、そのような工法で造られています。
越前大野城主一覧
▲金森 長近(カナモリ ナガチカ) 大永4年(1524年)〜慶長13年8月12日(1608年9月20日) 飛騨守、兵部大輔 天正3年(1575年)、越前大野郡に所領を与えられる。後に剃髪して兵部卿法印と称し、豊臣秀吉に従い、飛騨高山3万8千石を領治。その後の幾多の軍功により、天正13年(1585年)、秀吉から飛騨一国を与えられた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、美濃国郡上八幡城攻めなどの功を賞されて二万石を加増、初代高山藩主となる。
▲長谷川秀一(ハセガワ ヒデカズ) ?〜文禄3年(1594年2月) 従五位下、侍従 天正12年(1584年)、越前東郷城主(大野城入城年不明、金森氏移封後大野を治めたものか)。天正17年(1589年)、近江肥田城主、文禄3年(1594年)、朝鮮出兵で病没。
▲青木 一矩(アオキ カズノリ) 天文10年(1541年)〜慶長5年10月6日(1600年11月11日) 従五位上、侍従、紀伊守 豊臣氏の一族といわれる。豊臣秀吉に早くから仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加する。天正15年(1587年)の九州征伐にも参加し、その功績により播磨立石城主となった。のちに越前大野8万石、文禄3年(1594年)に越前府中10万石と栄進を重ね、最終的には越前北之庄21万石を領した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、降伏直後に病死。
▲織田 秀雄(オダ ヒデカツ) 天正11年(1583年)〜慶長15年8月8日(1610年9月24日) 従三位、参議 文禄元年(1592年)、豊臣秀吉から越前国大野郡において5万石を与えられる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦に際し、秀雄は父信雄の意向に従い西軍に属するが、敗戦。改易された。
▲土屋 正明(ツチヤ マサアキ)(福井藩直轄領) ?〜慶長12年(1607) 北ノ庄藩(福井藩)藩主結城秀康の家臣。城代として大野城に在城。慶長6年(1601年)に入城か? 慶長12年(1607年)、秀康に殉死。
▲土屋 忠次(ツチヤ タダツグ)(福井藩直轄領) 父正明の没後、大野城主を継ぐが、父の殉死が幕府の禁に触れて改易。慶長14年(1609年)追放か?
▲小栗 正勝(オグリ マサカツ)(福井藩直轄領) 慶長14年(1609年)、入城。
▲松平 直政(マツダイラ ナオマサ) 慶長6年8月5日(1601年9月1日)〜(寛文6年2月3日(1666年3月8日)) 従五位下、出羽守、従四位下、侍従兼任、従四位上、左近衛権少将。 結城秀康の三男。元和2年(1616年)、上総姉ヶ崎1万石を与えられる。寛永元年(1624年)、大野5万石。寛永10年(1633年)、信濃松本7万石。寛永15年(1638年)、出雲松江18万6,000石。 (直政と直基の間2年間、丸岡藩主本多成重預かり?)
▲松平 直基(マツダイラ ナオモト) 慶長9年3月25日(1604年4月24日)〜慶安元年8月15日(1648年10月1日) 従四位下、侍従、大和守 結城秀康の四男。寛永元年(1624年)、勝山3万石。寛永12年(1635年)、大野5万石。正保元年(1644年)、出羽山形15万石。慶安元年(1648年)、姫路15万石に国替えを命じられるが、赴く途上で死去。
▲松平 直良(マツダイラ ナオヨシ) 慶長9年11月24日(1605年1月13日)〜延宝6年6月26日(1678年8月13日) 従四位下、侍従、土佐守、但馬守 結城秀康の六男。寛永元年(1624年)、木本2万5千石。寛永12年(1635年)、勝山3万5千石。正保元年(1644年)、大野5万石。
▲松平 直明(マツダイラ ナオアキ) 明暦2年1月5日(1656年1月31日) - 享保6年4月21日(1721年5月16日)) 従四位下、若狭守。(藩主引退後は市正) 松平直良の三男。延宝6年(1678年)、父直良の跡を継ぐ。天和2年(1682年)、明石6万石。
▲土井 利房(ドイ トシフサ) 寛永8年(1631年)〜天和3年閏5月25日(1683年7月19日) 正保3年(1646年)、従五位下能登守。延宝7年(1679年)、従四位下。延宝8年(1680年)、侍従。 大老・土井利勝の四男。延宝7年(1679年)から天和元年(1681年)まで老中職。天和2年(1682年)、大野4万石。
▲土井 利知(ドイ トシトモ)(利治改め) 延宝2年4月18日(1674年5月23日)〜延享2年2月8日(1745年3月10日) 従五位下、甲斐守 天和3年(1683年)、10歳で家督を継ぐ。元禄8年(1695年)、幕命により丸岡城受け取り。享保7年(1722年)から寛保元年(1741年)まで奏者番。寛保3年(1743年)、隠居。
▲土井 利寛(ドイ トシヒロ) 享保3年9月24日(1718年10月17日)〜延享3年8月16日(1746年9月30日) 従五位下、伊賀守 寛保3年(1743年)、家督を継ぐ。「江戸法令」・「大野家中法令条々」、伝馬規定など、藩の法制整備を行なうが、在位3年で死去。
▲土井 利貞(ドイ トシサダ) 寛保元年10月7日(1741年11月14日)〜文化4年11月5日(1807年12月3日) 従五位下、能登守 延享3年(1746年)、6歳で家督を継ぐ。洪水、凶作、大火が相次ぎ、藩の財政が困窮する。天明3年(1783年)に勝手向御用掛を創設するなど、財政改革を行うが失敗。文化2年(1807年)、隠居。
▲土井 利義(ドイ トシノリ) 安永6年6月27日(1777年7月31日)〜文政元年6月4日(1818年7月6日) 従五位下、右京亮、中務少輔、甲斐守、造酒正 近江彦根藩主・井伊直幸の十男。寛政3年(1791年)5月、土井利貞の四女・松と婚約し、利貞の婿養子となる。文化2年(1805年)11月8日、家督を継ぐ。文化7年(1810年)3月10日、隠居。文武両道の名君とされる。
▲土井 利器(ドイ トシカタ) 天明3年6月4日(1783年7月3日)〜文政元年5月17日(1818年6月20日) 従五位下、甲斐守 下総関宿藩主・久世広誉の十一男。文化6年(1809年)8月、越前大野藩主・土井利義の養子となる。文化7年(1810年)3月10日、利義の隠居により家督を継ぐ。財政難に見舞われる。文政元年(1818年)5月17日、死去。
▲土井 利忠(ドイ トシタダ) 文化8年4月3日(1811年5月24日)〜明治元年12月3日(1869年1月15日) 従五位下、能登守(没後従三位) 土井利義の長男。文政元年(1818年)、8歳で家督を継ぐ。天保13年(1842年)4月27日、利忠は自筆をもって「更始の令」を発布。藩政改革を行い、効果を挙げる。文久2年(1862年)、隠居。明治15年(1882年)、旧藩士たちにより、大野城ふもとに「柳廼社(やなぎのやしろ)」が建立され、祭神となる。
▲土井 利恒(ドイ トシツネ) 嘉永元年7月19日(1848年8月17日)〜明治26年(1893年)3月29日 従五位上、能登守(明治に至って正四位。子爵) 文久2年(1862年)、家督を継ぐ。元治元年(1864年)、天狗党が大野藩領を通過。明治元年(1868年)4月12日、新政府より箱館裁判所副総督に任命される。 |
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