函館 五稜郭跡
     Goryokaku Castle
           21.October.2013
            天空仙人の名城めぐり
五稜郭タワー Official Page
函館 五稜郭跡 写真
「函館 五稜郭跡」

函館 五稜郭跡 写真

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五稜郭タワー

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「五稜郭タワー」
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「函館山」
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函館 五稜郭跡 写真 函館 五稜郭跡 写真
「土方歳三像」「土方歳三像」
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函館 五稜郭跡

Goryokaku Castle

北海道函館市五稜郭町

Goryokaku-cho,Hakodate-shi,Hokkaido


函館 五稜郭跡

徳川幕府の命を受けた蘭学者武田斐三郎が設計を手掛け、1864(元治元)年に完成した、国内初の西洋式城郭が五稜郭です。かつて、海軍副総裁榎本武揚率いる旧幕府脱走軍と、新政府軍が激しい戦闘を繰り広げた場所として知られていますが、五稜郭公園として一般開放されるようになった1914(大正3)年以降は、春に約1600本のソメイヨシノなどが咲き誇る道南有数のサクラの名所、また、人気の高い観光地、地元市民にとっての憩いの場として、その役割を様変わりさせています。

星形の城郭は、防御側の死角が少ないなどの利点があり、当時ヨーロッパを中心に普及していました。幕府は開港に伴う防備強化を図るため、五稜郭築造に着手。しかし、建設途中で財政難に陥り、一部の計画変更を余儀なくされました。人馬が出てくるのが直接見えないようにするための変形した菱形状をした土塁「半月堡(はんげつほ)」(または馬出塁)は、5つを設ける予定でしたが、一の橋を渡った右手にある1カ所になったほか、備前御影石を用いるとした石垣は、大部分が函館山から切り出した安山岩で、裏門側には亀田川で集めた石を使用しています。およそ7年を費やして出来上がった五稜郭に、箱館山の麓にあった奉行所が移転。

1867(慶応4)年の大政奉還により、明治新政府が奉行所の業務を引き継ぎ、名称は箱館裁判所・箱館府となりました。しかし、江戸開城に納得しない榎本らは蝦夷共和国の樹立を目指して北海道に上陸し、五稜郭の占拠を成し遂げるも、新政府軍の反撃に屈し、1869(明治2)年5月に五稜郭を明け渡しました。

箱館戦争後、大半の建物が解体されたものの、白壁の土蔵「兵糧庫」は難を逃れ、箱館奉行所は、2010(平成22)年6月に復元公開されました。


歴史の語りべ・五稜郭

「五稜郭誕生」五稜郭誕生のきっかけは、嘉永6年(1853)のアメリカ艦隊の来航、 いわゆる「黒船来航」という大事件にあります。 開国要求に屈した徳川幕府は、安政元年(1854)日米和親条約を締結し、箱館(明治になるまで、函館は「箱館」と表記)を開港場としました。 この箱館を治めるために幕府が設置した「箱館奉行」は、産業の育成や開拓を進めると同時に箱館の防備強化を図り、 蘭学者の武田斐三郎に奉行所庁舎の移転に伴う新しい要塞の設計を命じました。 西欧の学問や技術を研究する「箱館諸術調所」の教授を務める優れた教育者でもあった武田斐三郎は、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルとする要塞を考案し、 工事に約7年の歳月を費やした五稜郭は、蝦夷地の政治や外交、防衛の拠点、まさに蝦夷地の要として誕生したのです。

武田斐三郎(1827〜1880)

緒方洪庵塾に入門し、洋学諸術を学ぶ。 ペリー艦隊が浦賀に来航した際には佐久間象山の門下にいた。洋式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに明るく、 箱館開港後は箱館諸術調所の教授として活躍。その後幕命により、弁天台場、五稜郭の設計監督にあたった。

「幕末の動乱-箱館戦争」

アメリカの要求に屈した徳川幕府に対する不満は倒幕運動へと発展し日本を二分する争い、戊辰戦争が起ります。 大政奉還、江戸城明け渡しなど、風前の灯火となった幕府勢力の中、 旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、陸軍諸隊を収容した艦隊を率いて蝦夷地へ渡り五稜郭を占拠しました。 彼らは、明治元年(1868)12月、仮の政権を樹立し、徳川家臣による蝦夷地開拓の許可を政府に求めますが、 翌2年(1869)春、政府は征討軍を派遣して旧幕府脱走軍への攻撃を開始、箱館戦争が勃発。 圧倒的な戦力で攻撃してくる新政府軍の前に土方歳三ら歴戦の面々の抵抗も空しく五稜郭は包囲され旧幕府軍は降伏。 幕末維新の動乱は終結しました。


榎本武揚(1836〜1908)

オランダ留学を経て幕府の海軍副総裁になる。幕府崩壊後、新政府への軍艦引渡しを拒否して脱走。 箱館に旧幕臣による仮政権を築くが箱館戦争で敗れて降伏。後に明治政府の要職に就く。


土方歳三(1835〜1869)

薬の行商をしながら道場に通い近藤勇・沖田総司らと出会う。 上洛の機会を得て、京を取り締まる「新選組」結成に参加。 鬼の副長として名を馳せる。後に榎本軍に合流して箱館戦争で戦死。


新しい時代の象徴として誕生した五稜郭は封建制度の終焉の地となりましたが、 五稜郭の歴史はここで終わったわけではありません。 その後、大正3年(1914)には公園として開放され市民の憩いの空間となり、 昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、幕末維新の歴史を伝える語りべとして、 人々の訪れを静かに待っています。


ペリー艦隊の来航と開港都市はこだて

嘉永6年(1853)、浦賀にやって来たアメリカ合衆国海軍の M.C.ペリー提督は、アメリカの全権大使として徳川幕府へ開国を迫りました。 巨大な軍艦「黒船」の威力を前にした幕府は、安政元年(1854)日米和親条約を結び、 伊豆の下田と箱館(明治時代になるまで、函館は「箱館」と書かれていました)の開港を決定し、 箱館は開港場として国際都市になるのです。


蝦夷地を治める箱館奉行

徳川幕府は、開港場となった箱館を治め、外国との交渉や海岸の防備など、 蝦夷地を治めるために「箱館奉行」を設置しました。 奉行に任命された人々は、幕府の重要な役職を務めた優秀な人物で、産業を興して開拓を進める一方で、 開港場箱館の防備強化のためのさまざまな計画が立てられました。 五稜郭の築造もこの一つで、奉行所の建物を移転するに伴って守りを固めるために考案されたものです。


武田斐三郎と五稜郭の築造

箱館奉行が、西欧の学問を研究するために設立した学校「箱館諸術調所」の教授であった武田斐三郎は、 オランダから入ってくる新しい学問である「蘭学」を学んだ人物で、 西洋式帆船を使って日本一周の航海実習を行うなど優れた教育者でもありました。 箱館奉行から五稜郭の設計を命じられた武田斐三郎は、フランス人から贈られた書物を参考にして ヨーロッパの「城郭都市」をモデルとする要塞を考案しました。 工事は安政4年(1857)に始まり、7年後の元治元年(1864)には一応完成し、蝦夷地の政治や外交の中心となりました。


幕末の動乱一箱館戦争

「開国」か「鎖国」かを巡る対立は幕府打倒の動きへと発展し、慶応4年(1868)、遂に成辰戦争が起りました。 旧幕府陸軍の一部は江戸を脱走して各地で戦い続け、旧幕府海軍の副総裁であった榎本武揚も艦隊を率いて江戸湾を脱走、 陸軍を乗せて蝦夷地へ渡り五稜郭を本拠地としました。 彼らは同年12月に選挙による仮の政権を樹立。 徳川家臣による蝦夷地開拓の許可を政府へ求めましたが、 明治政府は、翌年3月、軍隊を派遣して旧幕府脱走軍への攻撃を開始、箱館戦争が始まりました。 脱走軍は圧倒的な戦力で進攻してくる政府軍により五稜郭へ追い詰められ、 土方歳三ら歴戦の面々も相次いで戦死し、旧幕府軍は降伏。幕末の動乱は終結したのです。


星形の城の起源

五稜郭の特徴である星形の城の起源は16世紀頃のヨーロッパです。 戦乱の相次ぐ中で、町全体を城壁で囲んだ「城郭都市」が数多く造られましたが、銃や大砲が発達してくると、 これに対抗して防御側の銃の死角を少なくする構造が考案されました。 こうして誕生したのが星の形をした城なのです。 これらの城郭はヨーロッパ諸国の海外進出・植民地拡大に伴い世界各地に造られましたた。 これに対して五稜郭は、西洋の技術に初めて接した幕末期の人々が、 新しい時代の象徴として自らの力で築いた「和魂洋才」の象徴と言えるでしょう。


四季の五稜郭

五稜郭の春は桜とともにやってきます。大正時代から植えられたソメイヨシノなど約1,600本が咲き乱れます。 初夏は「箱館五稜郭祭」。ペリー来航から始まる五稜郭の歴史をテーマとする維新行列が街をパレードします。 そして真夏の夜に函館の歴史を再現する「市民創作函館野外劇」。 五稜郭の堀や石垣がスペクタクルの舞台です。 冬は「五稜星(ほし)の夢」。星形の堀の周囲を2,000個のイルミネーションで彩ります。 現在の五稜郭は市民文化の発信地です。


@「亜墨利加船、箱館来航」

安政元年(1854)、徳川幕府は二百年以上続いた「鎖国」を廃止し日米和親条約を結びました。 開港場に決定した箱館の調査のために艦隊を率いてやってきたペリー提督と、 幕府から応接役を命じられた松前藩の家老がアメリカの軍艦上で対面しました。


A「開港場での交流」

開港場となった箱館の町には、外国の水兵や船乗りが毎日のようにやって来ます。 彼らは商店の品物をお土産として買求め、八百屋で買ったキュウリやなすを生でかじったり、 木魚を叩きながら踊ったりする水兵もいたようです。


B「北の大地を拓く一箱館奉行」

徳川幕府が箱館と蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すと同時に、 箱館の防備強化も計画しました。 蘭学者の武田斐三郎が、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルに考案した新しい要塞の設計図を奉行に説明しています。


C「幕末の高等教育一箱館諸術調所」

箱館諸術調所には身分に関係なく入門できたため、日本各地から学問を志す若者が集まりました。 教授である武田斐三郎は、オランダ語や航海学、測量、造船、化学などの専門的な技術と知識を熱心に教え、 ここから近代日本の指導者達が育ちました。


D「蝦夷地経営の拠点-五稜郭築造」

安政4年(1857)、五稜郭の建設工事が始まりました。 堀を造る工事や石垣を積む工事、お役所や役人の住む家を建てる工事などが行われ、 日本の各地から専門の職人や多くの労働者が集まり、7年の歳月をかけて元治元年(1864)、一応完成しました。


E「旧幕府脱走軍、蝦夷地上陸」

明治元年(1868)10月20日、箱館から45kmほど北にある鷲ノ木の海岸に、旧幕府脱走軍が上陸しました。 吹雪と激しい荒波により上陸用のボートが転覆して多くの犠牲者を出しながらも、 陸軍の部隊が箱館・五稜郭を目指して出発しました。


F「五稜郭入城と箱館占領」

五稜郭に有る新政府の役所「箱館府」は、守備隊を派遣して箱館へ迫る脱走軍を攻撃しますが、 戦いに慣れている脱走軍に蹴散らされてしまいました。 脱走軍を率いる榎本武揚が、日の丸の旗を先頭に行進する部隊とともに五稜郭へ入城していきます。


G「松前攻略・館城の戦い」

箱館を占領した脱走軍は松前藩に平和共存を提案しますが拒否されたため、陸軍を派遣して松前を占領しました。 松前藩の砦であった館城も脱走軍の攻撃を受け、 僧侶でありながら松前軍のリーダーである三上超順らの奮戦もむなしく攻め落とされました。


H「旗艦開陽、江差港に沈む」

松前を攻撃する陸軍を海から支援するために出撃した旧幕府軍の軍艦「開陽」は、 冬の日本海の嵐により江差の港で座礁してしまいました。 陸軍を率いて江差に到着した土方歳三が、荒波に砕かれていく「開陽」を見て言葉もなく立ち尽くしています。


I「蝦夷全島平定、仮政権の樹立」

軍艦「開陽」を失いながらも松前藩を打ち破り、全蝦夷地を手にした旧幕府脱走軍は、 明治元年12月15日、箱館港で百一発の大砲を撃って勝利を祝いました。 彼らは入札(選挙)によって、榎本武揚を総裁とする仮の政権を樹立しました。


J「明治新政府軍、反撃開始」

明治2年(1869)3月、春の到来と同時に、明治新政府軍の大部隊が日本海側の乙部の海岸に上陸しました。 旧幕府脱走軍に対する反撃が開始されたのです。 彼らは陸軍を3つに分けて、脱走軍の本拠地である箱館・五稜郭へ向けて進撃を開始しました。


K「一進一退の攻防」

箱館への最短ルートである江差山道では、脱走軍陸軍奉行並である土方歳三の率いる部隊が陣地を築いて新政府軍の大部隊を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退しました。 しかし新政府軍は、第二陣・第三陣の増援部隊を加えて五稜郭へ迫ります。


L「箱館総攻撃」

明治2年(1869)5月11日、箱館と五稜郭を包囲した新政府軍は、遂に総攻撃を開始しました。 箱館山裏側の絶壁を登って現れた新政府軍の奇襲部隊により箱館の町は占領されてしまいます。 これを知った土方歳三は箱館の奪回に向かいますが、銃弾を受けて戦死しました。


M「戦時下の赤十字精神」

新政府軍の一隊が、脱走軍の箱館病院にも突入しました。 病院長であった高松凌雲は、けが人や病人の命を助けるために赤十字精神の大切さを訴えました。 新政府軍も患者達を救うことを約束し、この後、高松凌雲を通して脱走軍に降伏を勧めます。


N「五稜郭開城・終戦」

明治2年(1869)5月17日、榎本武揚ら旧幕府脱走軍の幹部は新政府軍の陣地に出向いて、 亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。 翌日彼らは新政府軍に五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終結しました。 ここに幕末維新の動乱は終了し明治時代が動き出すのです。


O「静穏」

箱館戦争の終了後、五稜郭の堀では、冬期間に天然氷の切り出しが行われ、 明治4年(1871)には本州へ送られて「五稜郭氷」の名で売り出すほどの産業に育ちました。 また大正3年(1914)には公園、昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、 激動の歴史を静かに伝えています。


☆五稜郭主要データ

史跡指定範囲の面積  約251,000u(東京ドームの約5倍)

周囲 堀の周囲    約1.8km 史跡指定地の周囲 約3km

堀の幅 最大幅、約30m 堀の深さ 約4〜5m

土塁の高さ 5〜7m 土塁の厚さ 約27〜30m(底部)

直径 約500m(東西約500m×南北約500m)

別称 「亀田御役所土塁」、「柳野城」


五稜郭の歴史・略年表

   年       月  日 五稜郭・箱館戦争関連事項

安政 1 1854  3月    日米和親条約締結。箱館の開港決定

          4月    アメリカ艦隊が箱館に来航

          6月    箱館奉行を設置。

安政 2 1855 3月    箱館港を和親開港

安政 3 1856 8月    箱館諸術調所を設置

安政 4 1857 6月    五稜郭の建設工事着工

元治 1 1864 6月    五稜郭へ奉行所を移転

慶応 3 1867 10月   大政奉還

慶応 4 1868  4月   新政府が五稜郭に箱館府を設置

           8/19 旧幕府艦隊、品川沖を脱走

           9月   明治に改元

明治 1      10/20 旧幕府軍、鷲ノ木に到着

          10/26 旧幕府軍、五稜郭を占領

          11/ 5 旧幕府軍、松前を占領

          12/15 旧幕府軍、蝦夷地平定

明治 2 1869  3/ 9 新政府軍艦隊、品川沖を出航

           4/ 9 新政府軍、乙部へ上陸開始

           4/17 新政府軍、松前を奪回

           5/11 新政府軍、箱館を総攻撃

           5/18 旧幕府軍降伏。五稜郭開城

明治 3 1870  2月   五稜郭の堀で天然氷を採氷

明治 4 1871  4月   五稜郭内の建物を解体

大正 3 1914  6月   五稜郭を公園として開放

昭和27 1952  3月   五稜郭を特別史跡に指定


函館 五稜郭タワー

「五稜郭に立つ 土方歳三」

天保6年(1835)、武州多摩の豪農の家に生まれた土方歳三は、 文久3年(1863)幕府が募集した浪士隊に近藤勇らと参加し、 尊王攘夷の嵐が吹き荒れる京都で新選組を結成、 「池田屋事件」などの討幕派浪士に対する徹底した取締まりと同時に、 「鬼の副長」として新選組隊士を厳しく統率し恐れられた。 鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでの敗北、さらに新選組局長であり盟友である近藤勇が処刑された後も、 宇都宮、会津と戦い続け、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し蝦夷地に渡った。 ここ五稜郭を本拠地とした旧幕府軍による暫定政権、 いわゆる「蝦夷共和国」では、陸軍奉行並・箱館市中取締の要職を務めた。 箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、 明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、 押し寄せる敵を撃退した。 しかし明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、 一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。 写真中央図書館 この像は、旧幕府軍が蝦夷地から一時的に新政府の勢力を駆逐し、暫定政権を樹立した明治元年12月15日、 戦場から凱旋した土方歳三が、乗馬用の鞭を片手に五稜郭に降り立った姿を再現したもので、 函館出身の彫刻家、小寺眞知子さんの作品です。 また展望2階には、小寺さん制作による座像「土方歳三之像」が設置されております。

■五稜郭に立つ土方歳三 高さ像本体約220cm(等身の約1.2倍)

台座 約103cm

材質像本体青銅(ブロンズ彫像)

台座 黒御影石

Hijikata Toshizoh (1835 〜 1869)

He was born in Tokyo in 1835 into the family of a wealthy farmer. In 1863, he was recruited into a band of masterless swordsmen to escort the Shogun going to Kyoto. At that time, terrorism and assassinations between factions and the Shogunate were rampant in Japan, so Hijikata's group evolved into the famous "Shinsengumi" to maintain the public peace of Kyoto. Thus Toshizoh had finally become a real samurai, even eventually becoming the Shinsengumi's second-in-charge. Power was restored to the Emperor in 1867, but the Shinsengumi and some Shogunate forces rebelled and fighting erupted in Kyoto The rebels, overpowered and losing, retreated to Tokyo, Aizu, Sendai and Hakodate. Toshizoh met and befriended in Sendai the ViceGovernor of the Shogunate Navy, Takeaki Enomoto. After merging forces, they made their way to Hakodate and overtook Goryokaku Fort. In 1868, the Hakodate War began. Toshizoh, as one of Enomoto's men, led 3000 troops against the Imperial forces. Outgunned and demoralized after devastating losses, on May 11 th, 4 days before Enomoto's last rebel forces surrendered, Toshizoh boldly left Goryokaku Fort to back up his comrades and was shot. He died just 34 years young.


制作者 小寺眞知子氏(1950〜2012) プロフィール 函館市出身。北海道教育大学美術科彫塑課程卒業。 1980年にイタリアへ渡り、ローマ美術アカデミーを84年に卒業。 ローマのアトリエを拠点に、イタリアや日本で数多くの個展・グループ展を開催。 また、1987年、第二回現代日本具象彫刻展、第十二回現代日本彫刻展に入選。 89年には第三回現代日本具象彫刻展大賞を受賞するなど活躍。 函館市内には、「青・海・テティス」(クィーンズポートはこだて)、 「ペリー提督来航記念碑」(函館病院跡地・ペリー広場)、「ハーモニー」(函館市中央図書館)、 「北天の竪琴」(函館空港ビル)、「小さなトリトン」(函館市総合保健センター)、 「赤い靴の少女像」(函館西波止場)など、8基の作品が設置されています。


星形城郭

名称所在地
龍岡城五稜郭

長野県佐久市田口3000
ニコシア

キプロス
ハリファックス

カナダ
ミュンスター

ドイツ
パルマノヴァ

イタリア
ヘレヴーツリュイス

オランダ
ハミナ

フィンランド
サンクト・ペテルブルグ

ロシア

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