浜松城
     Hamamatsu-jo Castle
            23.Jun.2017
            天空仙人の名城めぐり
浜松城公園 Official Page
浜松城 写真
「浜松城」

浜松城 写真
「浜松城」

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「浜松城からの眺め」

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天守門

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「徳川家康像」「家康くんと直虎ちゃん」
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浜松城

Hamamatsu-jo Castle

静岡県浜松市中区元城町100-2

100-2,Motoshiro-cho,Naka-ku,Hamamatsu-shi,Shizuoka


あなたの知らない天下取り物語

出世城伝説の秘密にせまる!?

後に天下人となった徳川家康。その若き29〜45歳の頃、 今川、武田、織田など戦国の世に名を挙げた、周辺諸国の名家、強大な戦国大名に囲まれ、戦い生き延びて、 そして、天下取りの夢をつかんだ場所が、浜松城です。

生国の岡崎を離れ、駿府(現在の静岡市)の今川家で送った人質生活、青年期に織田家と同盟を結び、 岡崎から西遠までを支配下におさめ、戦国大名として着実に力をつけていきました。 耐え難きを耐え、力を蓄え、徳川300年の礎となった17年間の浜松城時代のエピソードを史跡とともにご紹介します。

家康の生涯最大の敗戦とも言えるのが、元亀三年(1572)の三方ヶ原の合戦です。 南下してきた、武田軍2万7千に対するは徳川1万2千。 天下に名のとどろく武田騎馬軍団に多勢に無勢。 無残に敗走することになります。 この時多くの部下を失い、命からがら城に逃げかえってきた家康は、 その憔悴した姿を像として残し、生涯この敗戦を忘れるようにしたと言われています。


浜松城経由幕府中核へ!?

出世城と呼ばれた浜松城

家康が天下統一を果たし、駿府に入城した後、浜松城は主に家康ゆかりの譜代大名が城主となりました。 概ね五万石前後で、浜松藩政300年の間に、再任を含め、25代の城主が誕生し、 老中に5人、大阪城代2人、京都所司代2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用され、 「はま松城は、出世城なり、初松魚」(松島十湖)の句も残されています。

特に有名な城主は、天保の改革で知られる、水野忠邦。 唐津藩主時代に昇格のため、願い出て浜松藩主となり、頭角をあらわし、 後に老中となったと言われています。


浜松築城を家康から命じられた木原吉次

築城を命じられたのは、倉橋宗三郎(普請奉行)と木原吉次、小川家次(ともに惣奉行)の3人で、 このうち吉次が中心で、440石に出世し徳川家の大工頭になっています。 吉次ら一族が住んだと伝わる袋井市木原に、建築関係者の信仰を集めていた許禰(こね)神社があります。

天守台地下にある井戸

城にとって重要なのが、水。 浜松市史によると、浜松城には天守台の穴蔵、天守曲輪の理門そば、 本丸に各1、二の丸に3、作左曲輪に4、計10本の井戸、清水曲輪に湧き水があったといいます。 天守台の井戸は、再建の時に残し、今の天守閣の地下室にあります。 直径1.3メートル、深さ1メートルほどで、 底は砂利や砕石を敷き詰めています。 もちろん、今は水がありません。 戦国時代、城の水利は極秘だったため、浜松城の場合も資料がなく、詳しいことは分かりません。


浜松城の石垣(野面積み)

浜松城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。 表面にすき間があり一見崩れやすそうに見えますか、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、 水はけもよく堅固です。 浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の硅岩で浜名湖や佐鳴湖など水路を使って運ばれました。 江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、 現存する石垣としては、彦根城、竹田城、そして安土城にも用いられたと言われています。


曲輪(くるわ)

曲輪とは、城やとりでを石や土で囲んだところです。 浜松城では、天守曲輪の他、清水・西端城作左の3つの曲輪がありました。 作左曲輪の由来は、譜代家臣の本多作左衛門重次が構築したからと言われています。


エピソード@

八幡宮と雲立ちの楠

三方ヶ原の合戦に敗れた家康が、八幡宮に敗走、楠の洞穴に忍び敵勢からのがれ、 秘策を練っていました。すると楠の上に雲がかかり、犀が崖の勝利をえ、 その後、楠は、「雲立ちの楠」と呼ばれました。


エピソードA

小豆餅と銭取

家康が三方ヶ原の合戦で、武田勢に追われて逃げ、帰る途中、おなかがすいて歩けなくなってしまいました。 ふと見ると、茶店で小豆餅を売っています。 おばあさんから餅を受け取り、口に運んでいると、そこに武田勢がやってきました。 あわてて逃げ出す家康におばあさんのびっくり。 「食い逃げは許さん!」と追いかけること数キロ。 見事代金を受け取ったと言われています。 そして、茶店のあった地を「小豆餅」、銭を受け取った場所に「銭取」という地名が残されています。 しかし、おばあさんの健脚ぶりにもびっくりですね。


エピソードB

白尾(しらお)

三方ヶ原の合戦の負けいくさで、家康は白尾にまたがり八幡神社へ。 そして楠のほら穴に隠れましたが、馬のしっぽは見えています。 村人が見つけ「お殿様、白尾が出ています。」あわててしっぽをかくし、 武田軍の追手をのがれました。 家康は、恩賞として村人に「白尾」の名字を与えました。


エピソードC

小粥(おがい)

家康は逃げているうち空腹になり、ある農家へ入りました。 老夫婦はびっくり。 「とてもお殿様に上げるものはございません。」 家康は「空腹にまずいものなし。一杯くれ」家康はおかゆを何杯も食べました。 のちに、おかゆをごちそうになった礼として「小粥」の名字を与えました。 小粥家は庄屋をつとめ、代々栄ました。

浜松城 パンフレットより


徳川家康と出世城

浜松城は三方ヶ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。 家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠. 母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、 岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、 各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、 元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。

家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、 在城17年に及んでいる。 有名な姉川、長篠、高天神城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、 特に元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦は、家康の生涯における難戦で、 関ヶ原合戦以上の戦いであった。 家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。

当時の城郭は、南北650m、東西600mで、三方ヶ原台地の斜面に沿い、 天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一線に並び、梯郭式の築城法に属している。 その他作左曲輪、出丸等もあった。

この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉晴氏によって天守は築かれたといわれているが、 江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、 浜松藩政約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。 在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、 寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、 なかでも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。 そのことから浜松城が出世城とも言われるようになった。 明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、 昭和33年春 浜松市民の努力が結実し、 旧天守閣跡に新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。

はま松は 出世城なり 初松魚(がつを) 

                      十湖


本丸

天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。 普通の城は天守閣をとり囲むように本丸が配置されているが、 浜松城の場合は天守閣の東、約17メートル下につくられた。 周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。 北には富士見櫓、南東のすみに二層の菱櫓を置いた。 本丸内の建物についてのくわしいことはわからない


天守台

浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、 西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。 また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、 現在は復興天守閣への入口として利用されている。

浜松城の天守は、第二代城主堀尾吉晴の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、 17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、 江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。 昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。

かつての浜松城は、築城時期時から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。 その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい3重4階で、巨大な天守だったと考えられる。


浜松城二の丸跡

「二の丸」は、「本丸」の東側に位置し、土地も一段低く、 広さがおよそ4950平方メートル(約1500坪)で城主の居館がありました。 また、政庁も設けられて江戸時代を通して藩政の中心でした。

「二の丸」の主な建物は「表御殿」と「奥御殿」からなっていて、 「表御殿」には藩の行政機関が置かれ、 およそ1650平方メートル(約500坪)ありました。 唐破風の玄関の奥に広間と使者の間、正面奥に近習・年寄詰め所・祐筆所と並び、 その左側に藩主が執政に使う上段の間と書院、右側には御用所・勘定所・勝手などの部屋がありました。

「奥御殿」はおよそ330平方メートル(約100坪)で、 左側が藩主の居間、右側が湯殿、小姓詰め所など計15の部屋がありました。 両御殿とも、生活と執務に便利なように細かく部屋割りがされていました。

また、二の丸の北の広場には米蔵があって、御城米蔵とか八千蔵と呼ばれていました。 西側には、二代将軍徳川秀忠の誕生屋敷跡ということで、 享保元年(1716)の絵図には誕生の松が描かれています。 現在、二の丸跡地は浜松市役所・浜松市立元城小学校の一部となっています。


天守門

浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、 この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。 天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。 「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、 天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。

絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子が描かれている。 天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。 天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。


浜松城の井戸について

浜松城の天守台には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。 石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないようにしたもので、 この時代、他の城郭にも多く見られる。 浜松城の他に名古屋城、松江城などにも天守穴蔵に井戸がある。 井戸は、城内に住む人々の飲料水として、 また戦いの時には籠城になることも想定し、 最後の拠点として天守内部や、天守の間近に設けられることがあった。


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