広島城 Hiroshima-jo Castle 26.Nov.2018 天空仙人の名城めぐり
「広島城」 |
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「広島城天守閣からの眺め」 |
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「御門橋・表御門」 | 「太鼓櫓」 |
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広島県広島市中区基町21-1
21-1,Motomachi,Naka-ku,Hiroshima-shi,Hiroshima
広島城 広島城の歩み 広島城は、太田川河口の三角洲に、毛利輝元が築いた典型的な平城です。 城地の選定と築城 毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県安芸高田市)を居城とする一領主でしたが、 元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。 後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、 城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。 こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角洲に城地を定め、天正十七年(1589)4月15日鍬入式を行いました。 築城工事は穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、 天正十八年末には堀と城壁が一応完成し、翌年、輝元は入場を果たしました。 城下の整備 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、輝元に代わって 安芸・備後二ヶ国(現在の広島域)の領主として福島正則が入城し、 外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。 また、広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、 出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。 しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和五年(1619)に芸備二ヶ国を没収され、 代わって和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。 以後、明治二年(1869)の版籍奉還までのおおよそ二百五十年間、浅野氏が十二代にわたって広島城主を勤めました。 明治以降の広島城 廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、 建造物は次第になくなりました。 特に明治七年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿等も焼失し、 大天守、中・裏御門、二の丸等を残すのみとなってしまいました。 そして昭和二十年(1945)8月6日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。 現在の天守閣は、同三十三年(1958)に外観を復元して建造きれたもので、 内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。 「広島」という地名の由来 築城前の太田川河口の三角州は、五ヶ村などと呼ばれていました。 「広島」という地名の由来については、 @自然の地形を表現する「広い島」という意味。 A毛利氏の祖・大江広元の「広」と、城地選定の案内役をつとめた福島元長の「島」を合わせて、 「広島」と命名した。 B築城以前から現地の人々が用いていた地名。 など諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。 「鯉城」の由来 広島城は別名を「鯉城」ともいわれています。 一説には、この付近一帯が己斐浦にあたり、己斐の音が鯉に通じることから呼ばれるようになったものといわれています。 広島東洋カープは、この鯉(carp)に因んで名付けられたものです。 パンフレットより |
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