国宝 犬山城 Inuyama-jo Castle 9.Nov.2017 天空仙人の名城めぐり
「国宝 犬山城」 |
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「犬山城」 |
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「天守から木曽川を望む」 |
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「木曽川 河畔から」 |
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「犬山城 天守閣」 | |
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「天守からの眺め」 | 「天守からの眺め」 |
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「天守からの眺め」 | 「天守からの眺め」 |
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「国宝 犬山城」 | 「本丸門」 |
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「木曽川河畔から」 | 「木曽川河畔から」 |
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「木曽川河畔から」 | 「木曽川 犬山橋から」 |
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Inuyama-jo Castle
愛知県犬山市犬山北古券65-2
65-2,Kita-koken,Inuyama,Inuyama-shi,Aichi
犬山城について 犬山城は、木曽川に面した通称「城山」を中心に、西側にある三光寺山も城郭範囲とする平山城です。 山の頂点に本丸を構え、本丸南側に「杉ノ丸」、「桐ノ丸」、「樅(もみ)ノ丸」、「松ノ丸」があり、 その間を大手道(本丸に向かう道)が通る構造になっていました。 大手道や、周囲を石垣や堀などで防御した平場である郭には、かつて門や櫓が作られており、 守りを固めていました。 城山の西側は「西谷」と呼ばれ、材木小屋や馬場がありました。
天守について 犬山城の本丸北端には、天守が現存します。 天守の形式は、二重の入母屋造屋根の上に望楼を乗せた形式であり、古い形式であると言われています。 全国に現存している12の天守のうち、最も古い形式を備えているとして、 文化財保護法により、昭和27年(1952)に国宝に指定されています。 天守の構造は入り口のある石垣の中が地下二階となり、石垣より上が三重四階となっています。
犬山城の歴史 犬山城は、天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。 戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、 城郭は整備されていきました。 小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、 小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。 江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和3年(1617年)城主となってからは、 成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。 明治4年(1871年)、9代目成瀬正肥のとき、廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。 明治24年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れましたので、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。 その後、伊勢湾台風などでも被害をうけましたが、昭和36年(1961年)から40年まで4年間をかけて解体修理をおこないました。 望楼型の独立天守で、高さは24mです。 国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城、松江城のなかでも、最も古い城であります。 平成16年4月、財団法人 犬山白帝文庫が設立され、城の所有は個人から財団法人になりました。 案内板より
犬山城の沿革 犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文6年 (1537)に木之下城を移して築城したと伝えられています。 こののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わりました。 天正12年(1584)小牧・長久手合戦の際には羽柴(豊臣)秀吉は大軍を率いてこの城に入り、 小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。 江戸時代になり、元和3年(1617)尾張藩付家老、成瀬正成が城主となってからは成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。 明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊され公園となりました。 明治24年(1891)の濃尾震災で天守は大きな被害に見舞われました。 同28年、愛知県から修復を条件に旧城主である成瀬氏に譲渡されました。 また、多くの市民からの義援金により修復工事がおこなわれました。 その後、昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで天守の破損が激しくなったため、 全面的な解体修理工事がおこなわれました。 天守は昭和10年(1935)に国宝に指定され、同27年規則改正にともない再指定されました。 また、天守の創建年代は天正(1573〜92)頃、慶長5(1600)・6年などいくつかの説がありますが、 現存する天守の中では最も古いと言われています。 現在、犬山城天守は犬山城白帝文庫の所有となり、大山市が管理をおこなっています。
公益財団法人 犬山城白帝文庫歴史文化館へ ようこそ 慶長15年(1610)頃、徳川家康の9男義直が尾張へ移封されると成瀬正成はその?偉役となります。 まだ幼い義直にかわって、尾張藩政を委ねられていた平岩親吉が同16年に死去し、 その翌年から正成は竹腰正信とともに尾張藩の付家老として政務に携わりました。 元和3年 (1617)、成瀬正成が2代将軍徳川秀忠から犬山城を拝領して以後は幕末まで代々、城主と尾張藩付家老を務めました。 明治24年(1891)の濃尾震災をきっかけに再び成瀬氏が天守の所有者となり平成16年(2004)までの長きにわ たり個人所有の城として知られてきました。 犬山城白帝文庫は、国宝犬山城天守および旧犬山城主成P家伝来の古文書・美術工芸品等等を調査研究・ 保存・公開し、犬山の文化発展に寄与することを目的として平成16年4月に設立されました。 天守の構造の概要 絲延面積 698.775u 天守の形式 望楼型 外 観 ◇3重 高さ19m 内部 4階 地下2階(石垣の中) 1 階 ◇納戸の間(282.752u) 中央部は4室に区画されており、その周囲には2間幅の武者走(通路)がめぐります。 上段の間は床が7寸高く畳敷で、室内 には床や棚などがもうけられています。 昭和の解体修理で、明治24年(1891)の濃尾震災により破損したという南東隅の 付櫓(15.22u)と北西隅の石落としの間(7.17u)を復元しました。 2 階 ◇武具の間(246.006u) 中央に武具の間があり、東・西・北の3方に武具棚を設けています。 解体修理で発見された墨書銘から延宝3年(1675)に設置されたものであることがわかりました。 3 階 ◇破風の間(81.936u) 入母屋屋根の中に位置します。 創建当初は2階の屋根裏でしたが、増築に伴って3階となりました。 南北には唐破風が設けられています。 4 階 ◇高欄の間(49.835u) 高欄の間の4方には約半間の廻縁がめぐり、高欄の間の南北に出入口があります。 出入口の左右には装飾化した花頭窓が配置されています。 天守の石垣 石垣の高さは5mで、 自然石をほとんど加工しないで積み上げた野面積みという工法です。 パンフレットより
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