清洲城 Kiyosu-jo Castle 8.Nov.2017 天空仙人の名城めぐり
「清洲城」 |
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「清洲城」 |
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「清洲城」 |
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「清洲城」 |
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「清洲城 天守閣」 | |
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「信長塀」 | |
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「清洲公園 織田信長公像」 | 「清洲公園 濃姫(帰蝶)」 |
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Kiyosu-jo Castle
愛知県清須市朝日城屋敷1-1
1-1,Shiroyashiki,Asahi,Kiyosu-shi,Aichi
清洲城と歴代城主 清洲城は当初、尾張守護所の下津城の別郭として築城されました。 その後、下津城が戦乱で消失したため文明八年(1476)に守護所が清洲城へ移されたとされています。 戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。 尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清洲の織田氏が争うなかで、 清洲織田家当主の信友を那古野城主織田信長公は攻め滅ぼして清洲城に入城し、尾張の拠点としました。 永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、 美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていきました。 しかし、天正一〇年(1582)の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。 このように天下統一の礎を築いた織田信長公は郷土の英雄として人々の尊敬を集めています。 清洲城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。 信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。 徳川義直の代の慶長一五年(1610)徳川家康は、清洲城の廃都と名古屋遷都を命じ、三年後には、「清須越し」が完了しました。 清洲城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていきました。 清洲城歴代城主 一、織田信長 二、織田信忠 三、織田信雄 四、豊臣秀次 五、福島正則 六、松平忠吉 七、徳川義直 清洲町が町制百周年を迎えた平成元年四月、清洲のふれあい郷土館として清洲城天守閣を再建しました。 平成十七年七月に、西枇杷島町、清洲町、新川町が合併し清須市となった後も、清須市のシンボルとして人々に親しまれています。 案内板より
■ 清洲城の概要 清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城されたと伝えられています。 その後、文明八(1478)年に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。 この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張上四郡を、清洲の織田氏が下四郡を分割支配しました。 清洲織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元(1555)年、那古野城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。 永禄三(1560)年に桶狭間の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますが天正十(1582)年本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれます。 信長没後、天正十(1582)年の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。 当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。 この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西1.6km 南北2.8kmもあったといわれています。 信雄以降、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直という錚々たる武将が清洲城主となりましたが、慶長十五(1610)年、徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、三年後には「清洲越し」が完了し、 当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう。」が残っています。 清洲越しにより清洲城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています ■ 再建清洲城 平成元(1989)年「美しい歴史のまちづくり」をめざした清洲町の町制百周年記念事業として十六世紀の戦国の世の郷土の英雄、織田信長公の居城として、 かつて「東海の巨鎮」、「天下の名城」と称えられた清洲城を再建しました。 この清洲城は、日本古来の城郭様式を随所に取り入れ再建されました。 城郭の周囲には古い様式の石積みや漆喰塀、大手門の両側には信長塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に本瓦葺三層四階望楼付の天主閣がそびえます。
信長塀 永禄三年(1560)織田信長公が桶狭間へ出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼に奉納された塀をモデルにしたものです。
帰蝶(濃姫) 織田信長公正室 【天文4年(1535)?〜慶長17年(1612)?】 美濃国の戦国大名、斉藤道三を父に、明智光継の娘・小見の方を母に誕生。 天文17年(1548)、政略結婚で信長公に嫁ぎます。 濃姫とは「美濃から嫁入りしてきた姫」という意味です。 ー般には、知的で気性のしっかりした女性であり、 信長公の苛烈を和らげる良き妻であったとのイメージがありますが、 これは後世描かれた小説などの影響によるもので、その実像はほとんどわかっていません。 結婚後は歴史の表舞台にー切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説など様々な説が取り沙汰されますが、 どれも根拠はありません。 戦国の覇者・信長公の正室という立場にあったという事実だけが濃姫という女性の謎めいた魅カとなって、 人々の想像を掻き立てています。
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