高知城      Kochi-jo Castle    10.Dec.2013         天空仙人の名城めぐり

高知城 Official Page
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高知城

Kochi-jo Castle

高知市丸の内1丁目2番1号

1-2-1,Marunouchi,Kochi-shi,Kochi


高知城

1.追手門 石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えを持つ。 門前は枡形になっており、防御時には石垣上の狭間塀や門上から攻撃できるようになっている。 また、門の2階には「石落とし」もあり、敵の真上から石を落としたり槍を突くことができるようになっている。 門前の石垣は城内で最も巨石が多くみられる場所であり、工事の際に印された「ウ」、「エ」、「ケ」、「シ」などの刻印も確認することができる。

2.追手門から杉ノ段まで

追手門をくぐり左手の石段を登り詰めると杉ノ段に至る。 石段は登りにくく下りやすいよう幅が工夫されている。 現在は蓋がされている井戸は良質の飲料水を汲めたことから、 藩主の居住する二ノ丸御殿まで毎日10時、12時、16時の計3回運ばれていたという。 藩主のお国入りや出駕の時には、一族がここまで送迎に出向いていた。

3.鉄門跡と詰門

杉ノ段から右手に石段を登ると打込ハギという手法で築かれた堅牢な石垣が目立つ鉄門跡に至る。 当時は門扉に多数の小鉄板が打ち付けられ、門内には小さな枡形が設けられた重要な防衛ポイントであった。 再建時に積み直された石垣には、石を割るための楔の跡も残っている。 鉄門跡の階段を越えると右手前に三ノ丸、右手に二ノ丸、左手に本丸と天守閣が迫り、 真正面には数段の石段越しに黒塗りの詰門がみえる。 敵はここで自然に正面の詰門側へと誘導され、石段を登るが最後、三方から矢と鉄砲の嵐に見舞われる。 門内は侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されており、 1階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっている。

4.三ノ丸

かつては三ノ丸御殿があり、年中行事や儀式を行っていた。 長宗我部元親による築城時の石垣が発掘され、その一部の遺構を見ることができるようになっている。

5.二ノ丸

藩主の暮らす二ノ丸御殿があった。北東には家具櫓や数奇屋櫓などがあり、 これらの櫓はその名前が示すように調度や道具類を収納していた。 西端には3階建ての乾櫓があり、さながら小天守のようであったといわれる。

6.梅ノ段

杉ノ段から左手に進むと、かつての馬場が梅苑となっている(梅ノ段)。 ここから西へ下ると「御台所屋敷跡」や城下町民の氏神であり祭礼時に限り庶民の参拝が許された八幡宮跡(現高知八幡宮)の小祠がある。 城内には八幡宮のほか諏訪大明神、厳島明神があり、城内三社といわれた。

7.本丸へ

詰門は本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たしており、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。 2階は家老・中老などの詰所として用いられ、現在の呼称はここからきている。 壁には隠し銃眼が設けられている。本丸の入り口には廊下門があり、ここをくぐると本丸に至る。

8.天守閣

外観四重(内部3層6階)高さ18.5mの望楼型天守で、創建当初の様式を踏襲して1749年に再建された。 大入母屋とその上の唐破風、黒漆で塗られた高欄が特徴的で、1階北東角には現存するものとしては全国唯一の忍び返しもある。

9.本丸御殿など

本丸には天守閣・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞・黒鉄門などの建造物が残る。 現存十二域のなかでも、本丸御殿を残すのは高知城のみで、いずれも国の重要文化財に指定されている。 東多聞は武術庫、西多聞は本丸警護の武士の番所、納戸蔵は藩の重要書類の収蔵、黒鉄門は儀式の際に藩主が出入りするのに用いられた。 御殿の書院は正殿、溜ノ間、玄関からなり、正殿には一段高くした上段ノ間があり、西側には武者隠しがある。 欄間は土佐の荒波を表現したものになっている。 創建当初の御殿は金箔張の襖など贅を尽くしたものであったが、再建時には全体に質素な造りになったという。


南海の名城・高知城

高知城は、日本で唯一本丸の建築群がすべて現存する、江戸時代の姿を今に伝える城郭である。 もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城があり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より移り築城に取り組んでいた。 しかし、治水に難儀し、わずか3年で元親は浦戸城へ本拠を移した。 その後、関ヶ原の戦の功績で遠州掛川より入国した山内一豊がこの地を城地と定め、 慶長6年(1601年)秋から築城をはじめた。 一豊は築城家として知られた百々越前守安行を総奉行に任じ、近隣諸村から石材や木材を取り寄せ工事を進めたが、 難工事の末 城のほぼ全容が完成したのは10年後、二代藩主忠義の治世に移った慶長16年のことであった。 享保12年(1727年)には一部の建物を残し焼失。 ただちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を要している。 その後、明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、公園となっていまに至っている。別名を鷹城。

石樋

雨の多い土佐のこと、高知城において「雨仕舞い」は敵からの防御と並び重要であった。 城内には多くの水路が設けられ、石垣から飛び出した石樋で排水していた。 城内で16箇所が確認され、本丸の石樋はいまも現役である。 三ノ丸で発掘された水路と石樋は構造をいつでも見ることができるようになっている。

石垣

高知城の石垣は、近江の技術者集団・穴太衆(あのうしゅう)によるもの。 雨の多い土地柄を考慮し、崩れにくく排水能力も高い野面積が多く採用されている。 見かけは雑にみえるが、非常に頑丈な築き方である。 なお、城内では杉ノ段にある石垣と鉄門にある打込ハギの石垣が特に美しく、必見。 三ノ丸では、長宗我部元親がこの地で築城した際の石垣が発掘され、見ることができる。

防御

軍事拠点としての城の性格を伝える貴重な遺構が高知城には数多く残っている。 城内の各地でカギ状に曲がる石垣は「横矢掛り」といい、死角をなくしてどこからでも弓矢を敵に浴びせられるようにするための仕掛け。 塀に開いた丸、三角、四角と様々な形を持つ「矢狭間」は、ここから弓矢で敵を駆逐するためのもの。 最後の砦である天守には「石落とし」と「忍び返し」の鉄剣が設けられており、 これを突破して天守に取り付くのは至難の技だ。

高知城をめぐる堀のうち、現在残されている堀は約1/3足らず。 また、堀の幅も現在では半分近くになっているほか、城のそばにあった土塁も撤去されているなど江戸時代とは大きく様子が変わっている。 昔は城の北側を流れる江ノロ川から水を引き入れていた。


高知城略年譜

慶長6年(1601年) 山内一豊が土佐に入国し浦戸城を居城とする。         大高坂山に高知城築城を開始。

慶長8年(1603年) 本丸と二ノ丸の石垣工事が完成。8月21日、山内一豊が入城する。大高坂山の地名を「河中山」と改める。

慶長15年(1610年) 河中山を「高賀山」と改める。

慶長16年(1611年) 三ノ丸が完成しほぼ全城郭が整う。

享保12年(1727年) 城下町の大火で追手門を残し天守閣はじめ城郭のほとんどを焼失する。

享保14年(1729年) 深尾帯刀を普請奉行に任命し城郭再建着工。天守閣をはじめ櫓・城門などが完成、現在の天守閣はこの時のもの。

宝暦3年(1753年) 再建以来25年目にしてほぼ全城郭が整う。

弘化3年(1846年) 天守閣の修理を行う。

明治7年(1874年) 高知公園として一般開放。

昭和9年(1934年) 国宝に指定される(昭和25年文化財保護法施行により重要文化財となる)。

昭和23年(1948年) 天守をはじめ各建物の修理を始める。

昭和34年(1959年) 修復工事完成。史跡指定。

平成13年(2001年) 築城400年祭を開催。

平成22年(2010年) 三ノ丸石垣修復工事完成。

高知城 パンフレットより


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