国宝 丸岡城
     Maruoka-jo Castle
           22.May.2016
             天空仙人の名城めぐり
丸岡観光協会 Official Page
丸岡城 写真
「丸岡城」

丸岡城 写真

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「一筆啓上 書簡碑」「お静慰霊碑」
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丸岡城 写真 丸岡城 写真
「鯱(石製しゃち)」「雲の井」
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国宝 丸岡城

Maruoka-jo Castle

福井県坂井市丸岡町霞町1−59

1-59,Kasumi-cho,Maruoka-cho,Sakai-shi,Fukui


越前 丸岡城

今から440余年前の天正3(1575)年、織田信長は越前の一向一揆を平定するため大軍を派遣し、 当時丸岡の東北約4kmの山中にあった豊原寺を攻略し寺坊を悉く焼き払った。 信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国を与え、北之庄(今の福井市)に築城を命じた。 勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌年天正4(1576)年豊原から丸岡に移り城を築いた。 これが現代の丸岡城である。

勝豊以後、安井家清、青山修理亮、同忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純以下8代の居城を経て 明治維新となった。

大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し、 城域は公園となっているが、昔の城郭は五角形の広い濠を有し外郭には侍屋敷を配置し、 さらに河川を利用し外濠を設け寺院民家を包容し城下町を形成していた。

丸岡城は現存する天守閣の中でも最も古い建築で、外観は上層望楼を形成して通し柱がなく、 一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階となっている。 又、屋根が全部石瓦で葺かれているのが全国にも稀な特徴である。

このような古調に富んだ望楼式の天守閣は後の時代の松本城、彦根城、姫路城など層塔式天守閣と比較すると、 いかに城郭建築の初期のものであるかがうかがえる。

昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年福井大震災により倒壊した。 昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。


「一筆啓上」書簡碑

徳川家康譜代第一の功臣で鬼作左の勇名をとどろかせた本多作左衛門重次が陣中から妻にあて 「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」と書き送った話は有名である。 文中のお仙とは嫡子仙千代で、後の福井城主結城秀康に仕え、 数度の戦に武勲を立て丸岡城6代目の城主となった本多成重のことである。 この書簡碑は天守閣石垣の東北端に建てられている。

データでみる丸岡城

○天守閣の高さ/12.6m  ○石垣の高さ/6.0m  ○鯱の高さ/1.66m  

○城山の高さ/17.0m   ○石瓦の重さ/約20〜50kg(1枚)

○石瓦の枚数/約6,000枚 ・ 重さ約120t


伝説「人柱お静」

これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正4年(1576)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるよう進言するものがあった。 そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。 お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱となることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。 それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。 しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、 人々は、”お静の涙雨”と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。

「堀の藻刈りに降るこの雨は いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。


鯱(石製しゃち)

この鯱は、もと木彫銅板張りであったものを、 昭和15年〜17年の修理の際に、石製の鯱に改めたものです。 その当時は戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で、 つくりかえられたものですが、この石製の鯱も昭和23年6月の福井大震災により、棟より落下、現在の様な形で残っているものです。 現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和27年〜30年の修復時に、もとの木彫銅板張りに復元したものです。


「雲の井」

この井戸の由来

天正3年(1575)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。 豊原は一向一揆の最後の根拠地であった為、この地に築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてくることも、 しばしばであった。 しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に“かすみ”をかけて城の危機を救った。 この伝統が別名「霞ヶ城」と呼ばれる所以である。 現在も春先などに、すっぽりと”かすみ”に覆われた、「霞ヶ城」を見ることが出来る。


出格子(出窓)の石落し

石落しは櫓の隅、天守の最下層塀の途中に設け石垣をよじ登る敵勢を射落とす仕組みである。 石垣より建物の一部を出張らせ、敷板をはずすと石落しになり、ここから石を落下させたり、弓鉄砲を射った。


丸岡城歴代城主

城主名
柴田  勝豊(かつとよ)天正 4年〜天正10年(1576〜1582)
安井  左近家清(さこんいえきよ)天正10年〜天正11年(1582〜1583) 
青山  修理亮(しゅうりのすけ)天正11年〜天正15年(1583〜1587)
青山  忠元(ただもと)天正15年〜慶長 5年(1587〜1600)
今村  盛次(もりつぐ)慶長 5年〜慶長17年(1600〜1612)
本多  成重(なりしげ)慶長17年〜正保 4年(1612〜1647)
本多  重能(しげよし)正保 4年〜慶安 2年(1647〜1649)
本多  重昭(しげあき)慶安 2年〜延宝 4年(1649〜1676)
本多  重益(しげます)延宝 4年〜元禄 8年(1676〜1695)
有馬  清純(きよすみ)元禄 8年〜元禄15年(1695〜1702)
有馬  一準(かずのり)元禄15年〜享保18年(1702〜1733)
有馬  孝純(たかすみ)享保18年〜寛延 3年(1733〜1750)
有馬  允純(ますずみ) 寛延 3年〜安永 元年(1750〜1772)
有馬  誉純(なずみ) 安永 元年〜天保 元年(1772〜1830)
有馬  徳純(のりずみ)天保 元年〜天保 8年(1830〜1837)
有馬  温純(はるすみ)天保 8年〜安政 2年(1837〜1855)
有馬  道純(みちずみ)安政 2年〜明治 2年(1855〜1869)

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