長浜城
     Nagahama-jo Castle
           17.October.2013
            天空仙人の名城めぐり

長浜城 写真
長浜城

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長浜城 天守閣からの眺め

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長浜城

Nagahama-jo Castle

滋賀県長浜市公園町10-10

10-10,Koen-cho,Nagahama-shi,Siga


長浜城跡

長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が、室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。

姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。

秀吉の家臣である山内一豊も天正十三年(1585)から5年間在城したことがある。

江戸時代になって、慶長十一年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子 信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。

建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。また、当市内の大通寺台所門(市指定建造物)、知善院表門(市指定建造物)も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたることから貴重な史跡として昭和三十七年に市の指定文化財として指定されている。

城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。

案内板より


長浜城


秀吉の長浜築城

天正元年(1573)9月浅井長政滅亡後、湖北(滋賀県の北部)を支配したのは、羽柴(豊臣)秀吉であった。 姉川合戦と小谷攻めで手柄をあげた秀吉は、その功績によって浅井氏の領国の大部分を与えられ小谷城に入った。 そして翌天正2年夏にはすでに今浜(いまの長浜市公園町附近)に築城を開始している。 秀吉が湖岸に城を移した理由は、琵琶湖の舟運を重視した領国経営にあったと考えられる。 秀吉の築城については、当時の絵図や古文書がほとんど伝来せず、不明な部分が多い。材木は竹生島などから運んできたことや、 石垣用の石材は領内から集められ、石仏や五輪塔などの墓石まで使用されたと考えられている。 天正3年秋頃に秀吉は小谷から今浜城に移り、地名を「長浜」と改めて天正10年まで在城した。


長浜城その後

天正10年(1582)には清洲会議で長浜城は柴田勝家に譲られ、勝家の甥勝豊が入城したが、 はやくもその年の12月、秀吉は勝豊を攻めて、翌年4月に行われた柴田勝家との賎ケ岳合戦に際しては、 その軍事拠点としている。

天正13年(1585)から18年(1590)まで山内一豊が城主となり、その移封後は次第に荒廃し、 湖北真宗門徒の惣会所が城内に設けられたともいう。 この時期湖北は、佐和山城主石田三成(現、長浜市石田町出身)の支配下に入っている。

慶長11年(1606)には、徳川家康の異母弟内藤信成が城主となり大修築を行う。 慶長17年その子信正が城主となるが、元和元年(1615)摂津高槻城への移封によって、 長浜城は湖北支配の役割を彦根城に譲って使命を終えた。

廃城後、石垣・櫓材などは彦根城などに運ばれ、長浜城は完全に失われた。 長浜大通寺台所門や知善院表門(いずれも市指定文化財)などはその遺構と伝えられる。


昭和の長浜城築城

現在の長浜城は、故東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の設計指導により、 昭和58年(1983)に再興され、市立長浜城歴史博物館として開館。 本館の外観は、2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式で、 「秀吉の長浜城」を再興しようという市民の熱望によって天正期の城郭を想定し建築されている。 平成18年2月、館名が長浜市長浜城歴史博物館と改まった。

秀吉出世城 長浜城パンフレットより


長浜城は、古くは今浜城といい、南北朝時代、足利尊氏の重臣で「バサラ大名」として有名な京極導誉の家臣今浜六郎左衛門が創築し、 その後、上坂氏が守将として在城したといわれている。 天正の初め、一国一城の主となった羽柴秀吉がこの地に城を築き、地名を長浜と改め、城下町を造営して約7年間居城した。 天正11年(1583)4月の賎ヶ岳の戦いには、ここを根拠地として大勝し、威名を天下にとどろかせた。

天正13年から同18年まで山内一豊が在城、慶長11年(1606)、内藤信成が入城し、 その子信正が元和元年(1615)摂津の高槻城に移ってからは廃城となり、建築物および石垣の大半は彦根城に移された。 市内大通寺の台所門、知善院の表門、彦根城天秤櫓は、長浜城の遺構と伝えられる。

現在の長浜城は昭和58年(1983)に再興された天守閣である。

長浜城 入館券より


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