岡山城
     Okayama-jo Castle
           26.Nov.2018
            天空仙人の名城めぐり
岡山城 Official Page
岡山城 写真
「岡山城」

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「後楽園から岡山城を望む」

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「岡山神社近くの旭川畔」「後楽園から」
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「廊下門」
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「不明門」
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岡山城

Okayama-jo Castle

岡山県岡山市北区丸の内

Marunouchi,Kita-ku,Okayama-shi,Okayama


岡山城

岡山城の概要

岡山城の歴史

「安土(あづち)城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。 その制三重造にて五重・・・」と、古い記録(『岡山城誌』)にもあるように、 この岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、 城の研究には避けて通れない貴重な城である。 いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、 天守閣の基壇(天守台という)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、 全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。 かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほど行った、 現在市民会館や放送局の建っている高台(『石山』という)にあった。 天正元年(1573)、宇喜多直家(うきた・なおいえ)が、 当時ここの城主であった金光宗高を減ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市東区沼)から移ってきた。 今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家(ひでいえ)で、 時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。 秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、 57万4000石の大大名となった。 そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。 こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、 現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、 掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。 そして天正8年(1590)から本格的な城づくりを開始した。 途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、 ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。 起工以来実に8ヵ年にも及ぶ大事業であった。 新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、 現在も殆ど昔のまま残っている部分で、面積が約4万uあった。 秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45m、 二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。 外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、 「烏城(うじょう」の別名がある。 壁が黒いのは、戦国時代の名残りである。

また天守閣の内部には、かつて城主が生活をしていた「城主の間」の遺構が再現されていて、 全国的にも珍しい設備である。 他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。 かつて岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日掘といわれる)までで、 建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時はわが国を代表する名城であった。 しかし明治2年(1869)、岡山城は国の所有となったものの、 これら全ての建物を維持していくことができず、明治15年(1882)以後に残されたものは、 僅かに天守閣・月見櫓・西の丸西手(にしのまるにして)櫓および石山(いしやま)門の4棟であった。 その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、 昭和20年(1945)6月29日の早暁、 第2次大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。 現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、 外観は旧状通りに再現された。 また同時に、不明(あかずの)門・廊下門・六十一雁木(がんぎ)上門、それに周囲の塀なども、 古い絵図面に従い、外観が旧状通りに再現された。

月見櫓

この本丸内で戦火を免れた唯一の建物は、中段=表(おもて)書院跡=の北西隅に建つ月見櫓(国指定重要文化財)である。 これは岡山城第4代城主、池田忠雄(ただかつ)によって、元和・寛永年間(1615〜1632)に建てられたものである。 この名称のある建物は、全国的にも極めて数が少なく珍しい遺構である。 この櫓は、文字通り「月見」という風流を楽しむためにも用いられたようだが、 本来の目的は、この中段=表書院の北西を防衛するためのもので、櫓自体も武器の貯蔵庫になっており、 隠し銃眼(鉄砲を撃つための狭間)や中世的な石落としの装置などが設けられている。

銃眼石・野面積

またこの付近にある塀の土台石には、全国的にも珍しい、 当時の最新式装置の銃眼石(石狭間、狭間石ともいう)を並べている。 またそのそばには、穴蔵式の火薬貯蔵庫・古井戸・流し台なども残っていて、昔を偲ぶよすがとなっている。 さて石垣に目をやると、現在広い範囲に残っている石垣の殆どは、昔のままの状態で保存されていることで、 全国的にもあまり例がない。 特に貴重なのは、天守閣を中心にこれを広く取り巻く石積みが、 丸い形の自然石を用いた野面積(のづらづみ)であることである。 これは日本全国に近代的な城づくりが始められた頃(安土桃山時代の初め)の古い形式のもので、 貴重な文化遺産である。

打込ハギ

一方、月見櫓を支えている付近の石垣は、前の野面積とは異なり、 石の周囲を平らに加工した割り石を用いた石積みで、打込ハギ(うちこみはぎ)という工法である。 「扇の勾配」ともいわれるように、石垣のカーブの美しさが特徴である。 岡山城本丸の下段には、南から西にかけて、城を取り囲むように造られている掘は内掘で、 ほぼ昔の原形をとどめている。

また、ここへ通じる橋(内目安橋、内下馬橋という)の城側の手前には、 巨石で築かれて、四角な広場を形成している。 「升形(ますがた)」と呼ばれるところで、本丸の正面入口に当たる城門のあった場所である。 これらの石垣を含め、岡山城で使われている石の全ては、 花崗岩の宝庫である瀬戸内海の犬島(岡山市)から運ばれたものである。 石段を上った中段広場は、「表書院」と呼ばれ、 かつては備前(岡山)藩の政治を行うための建物(今の『県庁」に相当する)が立ち並んでいた所で、 65室の部屋と庭園があった。

礎石群

「不明門」を通り抜け、石段を上りきった天守閣のある上段は「本段」と呼ばれ、 城主自身の生活に必要な建物が立ち並んでいた所で、築山や池のある庭園も作られていた。 この広場の南東の一画には、多くの石を整然と並べた場所がある。 これらは、昔の天守閣の礎石を移したもので、かつてはこの状態で重く大きな天守閣を支えていたのである。 なお、戦火を免れたもう一つの建物は西の丸西手(にしのまるにして)櫓(国指定重要文化財)で、 この城から西に300m行った内山下(うちさんげ)の場所にある。 これは、姫路城の城主、池田輝政(いけだ・てるまさ)の子、 利隆(としたか)が藩政の代行でやってきた慶長8年(1603)に建てたものである。

パンフレットより


岡山城(烏城)の歴史

備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、 天正元年(1573)の秋であった。 石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、 直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。 その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、 石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、 慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。 これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。 秀家の築いた天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、 外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。 この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の、 市街地空襲により焼失した。 現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、 外観は全く旧来の通り復元されている。


不明門

表書院(藩庁)の南端から本段(城主住居)へ上がる石段の入口に設けた渡橋門、 天守閣のある本段全体の入口口を固めた大形の城門である。 普段はこの門は閉ざされていたことから、「不明門」と呼ばれた。 明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。


廊下門

上屋は本段(住居)と中の段表書院(藩庁)を結ぶ城主の通路として、 使われたためこう呼ばれた。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。


岡山城の歴史を今に

岡山の市街地の元となった岡山城は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)に築城した後、 江戸時代には岡山藩の城府となり、明治維新により廃城となりました。 城跡は、大半が市街地となり、本丸も学校用地に転用されて、昭和20年の岡山空襲で天守と石山門が焼失し、 月見櫓と西手槽が現存するだけとなりました。 この本丸跡は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、 昭和41年には天守閣が復元されて観光施設ともなっています。 さらに、昭和62年に史跡に指定されてからは、歴史に視点を置いた整備が求められるようになりました。 岡山市は平成4年度から本丸跡中の段で、発掘調査、コンクリート建物の撤去、石垣の解体復元修理、 江戸時代末期の建物の表示、築城期の石垣の露出展示などを行っています。 こうした事業は、中の段の次は天守のある本段,その後は下の段と進めて行く計画です。 岡山市の歴史的シンボルであって市民共有の文化遺産である岡山城跡を、 より良い姿で後世に伝えていくため、事業へのご理解をお願い申しあげます。 なお、事業に関するお問い合わせは、岡山市教育委員会文化財課(電話803−1611)にご連絡ください。

案内板より


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