大垣城
      Oogaki-jo Castle
             9.Nov.2017
             天空仙人の名城めぐり

大垣城 写真
「大垣城」

大垣城 写真
「大垣城」

大垣城 写真
「大垣城」

大垣城 写真
「大垣城」

大垣城 写真 大垣城 写真
「大垣城 天守閣」
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大垣城 写真 大垣城 写真
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大垣城 写真 大垣城  写真
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大垣城 写真 大垣城 写真
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大垣城 写真 大垣城 写真
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大垣城  写真 大垣城  写真
「天守 最上階」
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大垣城  写真 大垣城  写真
「東門」「東門」
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大垣城 写真 大垣城 写真
「西門」「艮隅櫓」
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大垣城  写真 大垣城 戸田氏鉄公騎馬像 写真
「戸田氏鉄公騎馬像」
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大垣城

Oogaki-jo Castle

岐阜県大垣市郭町2-52

2-52,Kuruwa-machi,Oogaki-shi,Gifu


大垣城(巨鹿(きょろく)城・麋(び)城)

大垣城は天文四年(1535)、宮川安定が築城した(明応九年竹腰尚綱の創建とも伝えられる)といわれ、 大垣市内を流れる水門川の流れを外堀に利用して築城されました。 天守は四層四階建て総塗りごめ様式で、大変優美な城です。

慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、西軍を率いた石田三成の本拠地となり、 その後、寛永十二年(1635)、摂津(兵庫県)尼ヶ崎より戸田氏鉄公が入城し、 戸田十万石の居城となり、以後明治維新まで続きました。

昭和11年には国宝に指定されましたが、昭和20年の戦火で惜しくも焼失してしまいました。 その後、昭和34年に、外観を昔そのままの容姿で再建され、城下町大垣のシンボルとなっています。


本丸・天守の変遷

元和6年(1620)天守は三階建てから四階建てに改築されました。一・二階の床面積は等しく、上層にいくに従って面積が減少する層搭型天守となり、 建物の高さは約18m、石垣は約6.4mで、東附多門、西附多門が付設され、本丸を囲む曲輪の要所には二重・三重の隅櫓が並んでいました。 いずれも白漆喰総塗りごめ造りでした。

昭和11年(1936)艮隅櫓とともに国宝に指定されますが、 昭和20年(1945)7月の空襲で焼失、昭和34年(1959)天守が再建されました。 平成22年(2010)天守と乾隅櫓を戦災前の外観に近づける改修を行いました。

屋根瓦と石垣

戦国期の大垣城天守は、瓦が使用され一部に金箔瓦も使われるなど、当時の政権の影響を敏感に受けていました。 また、天守三層南西櫓にある鬼瓦は邪鬼を踏みつけて天守を鎮護していて、極めて特異だといわれています。

現在の天守の石垣は、ほとんどが再建時に修復、積み直しされ、一部焼失前の状態をとどめているのみです。 石材は、多くは大垣城北側にそびえる赤坂金生山産の石灰岩で、フズリナ、シカマイア、ウミユリなどの化石も見られます。


大垣市指定史跡 大垣城跡

大垣城は、牛屋川を天然の外濠にとりいれた要害堅固な平城で、 天文4年(1535)宮川安定によって創建されたと伝えられている。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、 戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に天下泰平の世を謳歌した。

先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。

大垣市教育委員会

案内板より


水と城の大垣城

大垣城の由来

大垣城は、天文4年(1535)宮川安定が築城した (明応9年(1500) 竹腰尚綱の築城とも伝えられる)といい、 水門川の流れを外堀に利用して造られた規模の小さな城であった。 その後城郭の増築が行なわれ、天守は慶長元年、伊藤祐盛によって造営され、 元和6年に松平忠良により改築されたという。 この天守は、四層四階建て総塗りごめ様式で、たいへん優美な城として名高く、 歴史の上からも重要な役割を果たした。 昭和11年には、国宝に指定され、郷土博物館として親しまれてきたが、 昭和20年7月29日戦災で惜しくも焼失した。 その後、大垣城再建の気運が高まり、昭和34年、現在の天守が完成した。 さらに、平成23年には、天守と乾隅櫓を戦災前の外観に近づける改修を行なった。

関ヶ原の合戦と大垣城

慶長5年(1600)石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため美濃の国に入った。 時の大垣城主、伊藤盛宗は豊臣家の家臣で、西軍に属していた。 そこで三成は、大垣城に入城して西軍の本拠とし、 付近の村や西方の南宮山にかけ諸将に陣を張らせ、 全軍の集るのを待った。ところが、東軍の進出が余りにも早く、美濃の諸城を攻略して、 大垣城から見下ろす西北の赤坂岡山を中心に布陣したため、 西軍の動揺は大きかった。 9月14日三成の謀将、島左近(勝猛)はこれを救うため、一計を案じて東軍を誘い、 南一色の地に予め配置した伏兵と呼応し笠縫、笠木で勝利を得た。これを杭瀬川の戦いという。 そのため、一時は西軍の士気があがったが、東軍徳川方の作戦におびき出され、 遂に、西軍は大垣城に福原長葉ら兵七千五百人を残して、関ヶ原に移動し、 翌15日は両軍が関ヶ原の原野で一大決戦 となった。これが名高い関ヶ原合戦である。 関ヶ原本戦後も大垣城の攻防戦が続いたが城内に裏切りが出たため、遂に23日に落城した。 東軍に包囲された西軍はよく戦い、「七騎多門」や「おあむ物語」が伝わっている。

戸田大垣藩の誕生

関ヶ原合戦を契機に江戸時代となり大垣城は「戦いの城」から「行政の城」にと生まれ変わった。 慶長6年(1601)石川康通が5万石で城主に任命され、 その後の寛永2年(1635)氏鉄が播州尼崎より入封するまでの35年間に 石川三代、松平二代、岡部二代、松平一代と将軍に忠誠をつくした武将が栄転してきてはまた去っていった。 大阪冬・夏の陣をへて徳川幕府の基礎がかたまってゆくとともに、 大垣城が争奪の的となることもなく、戸田氏大垣藩は西美濃に君臨して明治の版籍奉還まで235年太平の世が続いた。

治水と大垣

木曽川をはじめ、西美濃と輪中地帯は永年に亘って水との闘いに明けくれていた。 大垣に着任した氏鉄公は、治山治水の施策を基本にして、人間味あふれた施政方針を樹立した。 第一に開墾を行い、山の植林を進めるとともに、乱伐を止めさせた。 洪水の悩みは大きく治水は欠かせない仕事であった。 慶安3年(1650)氏鉄公入封から16年目、大洪水があって多くの被害が出た。 城の上から見渡せば、岐阜から養老まで一面の海だった。 「慶安寅年の大水」と呼ばれ、洪水史上でも稀な災害だった。 さらに、それ以上の大洪水が明治29年(1896)にあった。 そのときの水位を示す線が天守石垣の北西角に印されている。 このような水害から土地や建物を守るため西美濃特有の堤塘に包まれた、輪中が発達した。

大垣公園

大垣市の中央に位置する大垣公園は、かつての大垣城郭であり、 本丸、二の丸跡に設置され(面積30,200u)ている。 春は約30種200本の桜に始まり四季おりおりの風情があり、 公園の木々の緑から別名を巨鹿城・麋城とも呼ばれた天守などを望むことができる。 戦前は大垣祭の5月14日・15日に、天守が開放されて多くの人が入城した。

四階の展望台は気象通報所の役目もして、赤い吹き流しが揚げられると、 「お城に赤玉が出たぞ。台風がくるぞ。」と暴風の予報で町の人々は雨戸をしっかり閉めた。 晴天には白旗、曇りの日には水色の旗が揚がった。

公園内のいたるところに、幕末大垣藩の勤王家小原鉄心、菱田海鴎ほか沢山の先賢を顕彰する碑、銅像等が建てられている。 られると、

パンフレットより


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