大洲城の沿革
大洲城は、鎌倉時代の末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。
激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、
このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。
元和3年(1617年)米子から加藤貞泰が入城しました。
以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主として、この地を治めました。
明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されました。
しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
城跡も県史跡に指定され、今日も大切に保存されています。
4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料をもとに、
平成16年(2004年)に木造で復元したものです。
案内板より
大洲城
肱川の河畔に望む大洲城は、元弘元(1331)年鎌倉時代末期に宇都宮豊房によって築城されたといわれています。
その後、藤堂高虎、脇坂安治などによって近世城郭への整備が行われました。
明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却され、明治21(1888)年には、老朽化により、惜しくも天守は解体されました。
その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付などによって平成16(2004)年に復元されました。
4層4階の複連結式天守の復元にあたっては、明治時代の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に当時の姿を正確に復元されました。
このように復元に必要な多くの資料が残っていることは大変稀なことで、
大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと、史料研究の集大成といえます。
現在、江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財、城跡の一部が県指定史跡に指定されています。
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