高岡城跡(高岡古城公園) Takaoka-joseki Castle 22.Nov.2017 天空仙人の名城めぐり
「高岡城跡(高岡古城公園)」 |
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「本丸広場」 |
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「高岡城跡(高岡古城公園)石碑」 | |
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「駐春橋」 | 「駐春橋」 |
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「前田 利長公像」 | 「高山 右近像」 |
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「本丸橋」 | |
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Takaoka-joseki Castle
富山県高岡市古城1番9号
1-9,Kojo,Takaoka-shi,Toyama
国指定史跡 高岡城跡 平成27年3月10日指定 高岡城は、加賀前田家二代当主前田利長が、自らの隠居城として、慶長14年(1609)に築城した城であり、 小矢部川と庄川に挟まれた高岡台地上に位置する。 慶長14年利長は、居城である富山城が焼失したため、 新たな居城として6ヶ月で高岡城を築造するとともに、 城下を整備した。 慶長19年(1614)に利長が没し、翌元和元年(1615)一国一城令により高岡城は廃城となったが、 その後も藩の米蔵や塩蔵等が置かれ、維持管理された。 明治維新後は公園に整備されて今日に至った。 高岡城の縄張は、本丸の周囲に「馬出」と呼ばれる郭を配置し、 この時期の特徴的な姿となっている。 平成22年から24年の発掘調査によって、本丸から御殿のものと考えられる礎石や石積みを検出する等、 地下に遺構が良好に残っていることが確認された。 市街地にありながら堀や郭がほぼ当時のまま良好に保存されており、 近世初頭の政治・軍事の状況や築城技術を知る上で重要な史跡である。 富山県教育委員会 高岡市教育委員会 高岡古城公園を愛する会 案内板より
高岡古城公園のご案内 □ 歴史 高岡古城公園は、加賀藩2代藩主、前田利長によって築かれた高岡城の城址です。 慶長14年(1609)、利長は大火に見舞われた富山城に代わり、 加賀・能登・越中の中心に位置する関野の地に居城と城下町を移し、高岡城と命名しました。 縄張り(設計)を担当したのは、築城の名手と謳われた高山右近と伝えられています。 慶長19年(1614)、利長が死去し、次いで大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、 幕府の一国一城令により高岡城は廃城されました。 しかし、3代利常をはじめ歴代の藩主は、城址を高岡町奉行所の管理下において、 米蔵や塩蔵を設置し、土塁や堀を残す措置をとりました。 明治3年(1870)、金沢藩は窮民救済と農地増殖を目的に高岡城址を民間に払い下げる布達を出し、 明治5年(1872)の廃藩置県後、七尾県は水濠を除く31,066坪を民間に払い下げる決定をしました。 これに対して、高岡の象徴である「古御城」を壊すことについては高岡町民は反対の意思を示し、 当時の第17大区区長(現在の高岡市長に相当)服部嘉十郎ら高岡町民有志による公園指定請願運動が起こりました。 明治6年(1873)の公園条令(太政官布告)、翌年の射水神社の遷座もこの運動を後押しするものとなり、 明治8年(1875)7月に「高岡公園」として指定され、今日の高岡古城公園が誕生しました。 □ 特色 高岡城跡は、日本の築城技術が高度に発達した慶長期の縄張りを完全な形で残しており、 近世初頭の城郭構造を知るうえで貴重な遺構として全国に知られています。 城址全域に及ぶ公園面積は約21万uと広大で、しかもその1/3が堀で占められており、 全国有数の水濠公園です。 春は桜が一面に咲きほこり、夏は深緑が豊かに生い茂り、秋は紅葉が燃え盛り、冬は木々に雪が降り積もる。 野趣あふれる公園内では、四季折々の彩り豊かな景色が訪れる人々を楽しませてくれます。 石垣 二の丸から本丸に渡る土橋の両側には、築城当時の石垣が残っています。 内堀側の石垣の石材を調べたところ、高岡から氷見の海岸で切り出される砂岩が4割、 残りは県東部で切り出される花崗岩や安山岩が用いられています。 石には岩を断ち割る際にクサビを打ち込んだ「矢穴」のほか、 60種類余の文様・記号を刻み込んだ「刻印」を見ることができます。 案内板より
高岡城跡 石垣 高岡城は元和元年(1615年)に廃城となったが、 当時の城壁の名残りとして、ニの丸と本丸を結ぶにこの地に土橋の石垣が見られる。 この石垣の石にはいろいろな文字や文様が刻印されており、 キリシタンに関係があるという説もあるが、 石工が石を切り出した時につけた目印だと考えられる。 石垣の積み方は乱積みという素朴ながら堅固な方法を用いている。
高岡古城公園の基礎知識
前田利長公が築いた高岡城の城跡 加賀藩前田家二代の利長公は、天正13年(1585)から13年間、二上山上にあった守山城の城主でした。 慶長3年(1598)に利家公の後を継ぎ藩主となり、同10年(1605)には隠居して富山城に移りました。 しかし、同14年(1609)3月の大火により城が焼失したため、 当時関野と呼ばれていた地に新しく高岡城をつくりました。 縄張(設計)は、キリシタン大名であり、築城の名手として有名な高山右近と伝承されています。 入城して5年、利長公は亡くなり、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となりました。 しかし、城跡は残り、町民から「古御城」として親しまれていました。 明治になり、民間に払い下げられ、城跡が消失しそうになりましたが、 服部嘉十郎らが公園指定の請願書を提出し、保存運動を展開しました。 こうした市民の力により、城跡は高岡古城公園として残り、今に受け継がれています。
市街地に自然いっぱい! 3分の1が水濠 高岡古城公園の特長のひとつは、中心市街地に約21万uという広大な面積を持っていることです。 これは、東京ドームの約4.5倍にあたります。また、3つの水濠に囲まれており、 その面積は全体の3分の1を占めます。 加賀藩は、城の実質的な保全を図ったため、豪はほとんど築城時のままに残されています。 この公園は、人工的な手が加えられていない自然公園であり、豊かな水をたたえた水濠公園です。 春はさくらの名所としてにぎわい、夏は緑豊かな自然を、秋は色鮮やかな紅葉、 冬は白銀の静かなたたずまいと、四季折々に人々を楽しませてくれます。 また、「高岡万葉まつり」のメイン会場にもなっています。
必見!今も残る築城時の石垣 二の丸から本丸へつながる土橋には、築城当時の石垣が今も残ります。 石には、築城時の刻印が見られ、歴史を感じさせます。 |
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