徳島城跡 Tokushima-jo Castle 6.Nov.2004 天空仙人の名城めぐり
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「徳島城跡」 | |
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「蜂須賀家政公銅像」 | |
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Tokushima-jo Castle
徳島市徳島町城内
Jonai,Tokushima-cho,Tokushima-shi,Tokushima
徳島城跡 徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政(1558〜1638)によって建設されました。 築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、 比叡山の僧侶が協力しました。 徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、 東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。 徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、 南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。 藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。 御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、 重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。 「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。 藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、 明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。
蜂須賀家政公銅像 蜂須賀家政公(藩祖)は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、 天正14年(1586)に一宮城から中世に築造された渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。 入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、 新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。 また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。 戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、 戦時中に供出されてしまった。 それが昭和40年(1965)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わった。 ・台石 高さ2m、幅1.8m ・銅像 約2m ・竣工 昭和40年1月1日 コ島市公園穀n課 案内板より |
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