大和郡山 郡山城跡
     Koriyama-jo Castle
           10.April.2013
            天空仙人の名城めぐり

大和郡山 郡山城跡 写真

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大和郡山 郡山城跡 追手門 写真 大和郡山 郡山城跡 写真
「追手門」「向櫓」
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大和郡山 郡山城跡

Koriyama-jo Castle

奈良県大和郡山市城内町


郡山城跡

郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶が縄張りを行い、同8年の一国一城令に基づき拡張、 同11年には天守閣も完成をみた。 同13年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、 外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。

関ヶ原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、 柳沢15万石の居城として栄えた。

現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。

尚、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。

奈良県教育委員会 案内板より


郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来

筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一の偉業を成し遂げて、天正8年(1580)11月12日郡山にはいり、築城に着手している。 しかし、本格的な郡山築城は、天正13年(1585)9月に、大和、和泉、紀伊三ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高百万石をもって入城してからのことである。

その時、追手門もこの場所に築かれたものと思われる。 秀長なき後養子秀保、増田長盛とうけ継がれたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大坂を守った。 戦は西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取り壊しとなり、建物のすべては伏見城に移された。 廃城となった郡山の地は、代官大久保石見守長安、山口駿河守直友、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番となり、預かっていた。

慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こり、藤堂高虎は12月25日郡山に着陣し、戦闘配置についたものの、東西の和議が整い事なきを得た。

翌元和元年(1615)4月大坂夏の陣の際、時の城番筒井主殿頭は大坂方の誘いを断り、徳川方に味方したので大坂方の攻撃に遇い、福住に逃れた。5月8日、大坂落城を知った定慶は、士道に恥じて切腹して果てたといわれている。

戦後の論功において戦功第二となった水野日向守勝成が、六万石をもって郡山に封ぜられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や堀の修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作は勝成の手で普請を進めた。 しかし、在城わずか5年で備後福山城に移され、かわって、戦功第一の論功を受けた大坂城主松平下総守忠明が、元和4年(1618) 10月、十二万石をもって郡山城主となった。 そのとき城には十分な建物とてなく、家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので、近世郡山城の偉容は整った。

追手門もその1つで、当時はこの門を一庵丸門と呼んでいた。 その後、本多内記政勝、政長、政利、松平日向守信之、本多下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、喜十郎忠烈と続き、忠烈、嗣なく本多家は断絶となった。

享保9年(1724)3月11日、禁裡守護の大任を帯びて、十五万石余をもって甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里は、一庵丸門を梅林門と名を替え、城は美濃守信鴻、甲斐守保光、保泰、保興、保申とうけ継がれ明治維新を迎えて廃城となり、すべての建物は取り払われてしまった。 近時、郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復原された。

大和郡山市 案内板より


追手向櫓

追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639〜1723年)は大手先艮角櫓と呼ばれていました。

追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724年)のことです。

櫓は明治6年に取りはらわれましたが、記録によると、下重(1階)は四間二尺に五間、上重(2階)は二間四方の二重櫓であったと伝えられています。

大和郡山市教育委員会 案内板より


追手東隅櫓

この櫓が今の名に替えられたのは、柳沢氏入城後で、それまでは「法印斜曲輪巽角櫓」(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら) と呼ばれていた。豊臣秀長入城時(1583)に筆頭家老で5万石を食んでいた桑山一庵法印良慶の屋敷がこの曲輪に構築されていたので、 この曲輪を法印郭(曲輪)または一庵丸と呼ぶようになった。 古絵城図によると櫓は二重で、下重が二間五尺に三間二寸五分、 上重が二間二尺に二間五尺、(この時の一間は六尺三寸・ 197cm )郡山城の櫓の中では一番小型に属している。 構造としては窓が5つ、石落としが2ヶ所、鉄砲狭間が6ヶ所設けられていた。 古絵城図のなかに、この櫓の図の肩に「今太鼓櫓」と註記されているのがわかる。 これは当時櫓に、太鼓を据え付けて刻を知らせたり、変を知らしていた為である。

大和郡山市教育委員会 案内板より


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