フランス モンサンミッシェル修道院 Abbaye du Mont-Saint-Michel 憧れのヨーロッパ 4ヶ国 天空仙人の旅のかけら 31.July.2015
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「フランス モンサンミッシェル」 | |
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「大天使 ミカエル」 | 「大天使 ミカエル」 |
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「西のファサード」 | |
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「西のテラス」 | 「西のテラスから」 |
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「西のテラスから」 | 「西のテラスからトンブレーヌの小島」 |
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「修道院付属教会」 | 「修道院付属教会」 |
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「キリスト像」 | 「マリア像」 |
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「聖ミカエル(サン・ミシェル)像」 | |
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「回廊」 | 「回廊」 |
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「回廊」 | 「回廊」 |
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「回廊」 | 「回廊」 |
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「合同の食事室」 | 「合同の食事室」 |
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「大天使ミカエルと司教オベールのレリーフ」 | |
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「ピエタ像」 | |
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「聖マルタン礼拝堂」 | 「聖マルタン礼拝堂」 |
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モン・サン・ミシェル 修道院 モン・サン・ミシェル モン・サン・ミッシェルの長い歴史は708年に始まります。 アヴランシュの司教オベールが大天使を奉る聖堂をモン・トンブといわれる岩山に立ててから、 このモン[岩山コは重要な巡礼地のひとつとなり、10世紀にはベネディクト会の僧が修道院に住み始め、一 方、村は修道院の下の方に向かって発達してゆき、14世紀になると村の規模は海岸にまで至るようになりました。 英国との!00年戦争の時も不落の強固さを見せたモン・サン・ミッシェルは、軍事建築物のひとつとしてみ在されるようにもなりました。 英国のあらゆる攻撃に持ちこたえた防壁や要塞のつくりによって、このモンはフランス国家の誇りを象徴する場所になりました。 フランス革命時に修道会が散会してから1863年まで、この修道院は監獄として使用されました。 1874年、この修道院は歴史的建造物に指定され、大がかりな修復工事の対象となり、 それ以来、全体の景観も含めて、このモン・サン・ミッシェルの修復は中断されることなく現在も続けられています。 この修復工事により、天国を想い描いていた中世の人々が、 現世の空にそびえるエルサレムとみなしていたこの修道院の素晴らしさを皆様は再発見していただけます。 1979年よりモン・サン・ミッシェルはユネスコの世界文化遺産に指定されています。 見学順路 修道院の要塞化された入り口にある哨戒の間・1・を通り、 大階段・2・には、ソー・ゴチエのテラスがあります。 右側に教会、左側に修道僧の居住棟を見ながら上がってゆきます。 この居住棟は14世紀から16世紀に建てられ、歴代の修道院長の住まいとして使用されていました。 西のテラス・3・は当初の教会の前庭と、18世紀の火災で焼失した身廊前部3列で構成されています。 古典主義のファサードは1780年に再建されています。 このテラスからは湾を展望することができます。 西側は、ブルターニュ地方のカンカルの岩山から、 東側は、ノルマンディー地方の断崖まで、また、南西の陸地側にはモン・ドルの2つの花崗岩の岩山が見え、 北側にはトンブレーヌの小島が見えます。 沖にはこの修道院の建設に使われた花崗岩が採石されたショゼー群島の姿も見えます。 最後に、このテラスからの変わった眺めをご紹介しましょう。 1897年に建てられた鐘楼のネオゴシック様式の尖塔と、その上にある銅製金メッキの聖ミカエルの像です。 1000年から1010年の間に完成された修道院付属教会・4・は、海抜80mの岩山に長さ80mの土台が作られ、その上に建っています。 身廊は上に向かって、?洪廊、回廊、高窓の層の造りになつています。 身廊の天井は板張りヴォールト*になっています。 ロマネスク様式の内陣は、1421年に崩壊ヴオールトには板張り装してしまいましたが、100年戦争後に再建されたので、 フランボアイヤン式ゴシック様式になっています。 回廊・5・に進んでゆきます。この歩廊は他の建物につながる通路の役目を果たしていました。 また、祈りと瞑想の場でもありました。 宗教的な祝祭の時には儀式の列が歩みをとっていました。 この回廊は、13世紀の初頭に建てられたラ・メルヴェイユと呼ばれる建物の最上階にあり、 ここを通って合同の食事室、厨房、教会、共同寝室、古文書保管室、それに、さまざまな階段へと行くことができます。 西側に海に向かって開かれている湾が見えています。 この場所は参事会室に通じることになっていたのですが、工事未完のまま現在に及んでいます。 回廊の構造は重量を軽減するために木材を用いた工夫がされています。 2列に並べられた小さな柱は、わずかにずらせた形で組まれ、常に変化する視覚効果を作りだしています。 合同の食事室・6・では修道僧たちは沈黙のうちに食事をとっていました。 その間、彼らのうちの一人が、南側の壁にある説教壇で読唱していたのです。 この食事室の側壁には狭い窓が作られていますが、入口からは見えません。 階段を下りると迎賓の間・7・で、食事室の真下に位置します。 この部屋は王や貴族たちを迎えるために使われました。 次は太柱の礼拝堂・8・に進みます。この礼拝堂は修道院付属教会のゴシック様式の内陣を支える為に15世紀の中頃に作られました。 聖マルタン礼拝堂・9・は、修道院付属教会 の交差廊*の南側の基礎のために1000年より後に建てられました。 この礼拝堂には9mという驚くべき高さをもつ円形の天井が見られます。 聖マルタン礼拝堂から巨大な車輪がある細い通路に出ると、そこはかつての修道僧の納骨堂*・10・です。 この車輪は監獄化し*納骨堂ていた修道院に幽閉されていた政治犯の食料を引き上げる為に1820年頃に設置されました。 ここに見られるのは、中世に工事用として使用されていた車輪の複製です。 聖エティエンヌのチャペル・1l・は、19世紀初頭に崩壊した医務室と修道僧の納骨堂の間に位置し、 死者のチャペルとして使用されていました。 次に南北階段・12・を通りますが、ここは西のテラスの下に位置し、 ロマネスク様式の修道院の中心になる通路として機能しています。 修道僧の遊歩場・13・は、2つの身廊をもつ長い部屋で、 交差リブをもつ円天井という建築様式は、12世紀初めのゴシック芸術の誕生を告げています。 騎士の間・14・に入ると、そこは再びラ・メルヴェイユの建物の中です。 この部屋は回廊を支えるために建てられ、修道僧たちの仕事場であり、勉強の場でもありました。 彼らの知的産物は、現在もマニュスクリプト(手書き文書)として私たちに残されています。 この修道院で作成されたマニュスクリプトはアヴランシュに保管されています。 ラ・メルヴェイユの建物の見学の最後は、司祭の間・15・で、迎賓の間の下に作られています。 ここては修道僧たちは貧しい人たちやあらゆる境遇の巡礼者たちを迎え入れていました。
オリジナルな建築 モン・サン・ミッシェル修道院は、他の修道院とは似ても似つかない独特の様式をもつ建造物だといえるでしょう。 このモン[岩山]のピラミッドの形を念頭に置きながら、中世の建築家の巨匠たちは、花崗岩の岩山の周囲に、 建物を巻き込むような形で作り出してゆきました。 岩山の最上部にある修道院付属教会は、長さ80mの教会の重量を支えることができる台座となるいくつかの礼拝堂の上に建てられています。 修道院の花形と言われるラ・メルヴェイユの建物は、13世紀の建築家たちの建築術を熟知していたという証を物語っています。 彼らは傾斜した岩山に3階建ての2棟の建物を支えて建てることに成功したのです。 この実現は彼らの正確な技術的才能から生まれたといえるでしょう。 1階にある食料保存室であった狭い側廊*は、建物を支える働きをしています。 そして、西棟の2つの階の部分の基礎は重なり合っています。 さらに、建物の構造は、上部にゆくにつれて軽くなっています。 建物の外部は強力な控え壁*によって支えられています。 修道僧の生活の大原則は、建物の構造や建築様式にも影響を与えました。 聖ブノワ(ベネディクト)の会則*はこのモンに住む修道僧たちの生活を形づくり、彼らの1日を祈りと仕事に捧げることができるように正しています。 部屋は、修道院の原則を尊重しながら、この2つのことが行なわれるように作られています。 つまり、修道僧専用の部屋なのです。 このようにして、この原則に忠実に、ラ・メルヴェイユの建物の1階と2階には一般の信者を受け入れる部屋が設けられたのです。 このモン・サン・ミッシェル修道院の建設時には、2つの大きな必須条件が優先されました。 それは、修道院の生活の厳しさと地形的な制約だったのです。 *側廊 身廊側面の吹抜け *控え壁 壁を支えるために壁面に張り出して設けられた柱 *聖べネデイクト会の会則 6世紀にヌルシァの聖べネデイクトウスが、イタリアにある自身のモンテ・カシーノ修道院のために定めた。 この会則は、祈りと勤勉を勧め、ベネディクト会などで守られた。 大聖ミカェル(仏語でミシェル)崇拝 天使の軍団長である聖ミッシェルは、中世の宗教感覚において非常に重要な位置を占めています。 聖ミッシェルは新約聖書の中でヨハネの黙示録に登場し、竜[西洋では悪魔の象徴]と戦い、それを打ち倒します。 中世の人々は来世に対する恐れを抱いて生きていました。 聖ミッシェルは死者を導き、最後の審判の日にその魂を量るのです。 東欧では、4世紀から広く浸透していた聖ミッシェルの崇拝ですが、 この崇拝が始めて西欧に現れだしたのは5世紀の終わり頃です。つまり、492年に、 モンテ・ガルガノ(カシノ山、イタリア)で聖ミッシェルの最初の聖堂が建てられたのです。 1000年頃になると、聖ミッシェルを奉る教会や礼拝堂がヨーロッパ中に広がり、 特に、丘や岬の上に築かれるようになりました。 100年戦争後は、聖ミッシェルがこの岩山を英国の手から守り抜いたということで、 この崇拝には特別の意味が含まれるようになりました。 ついには、反宗教改革時には、カトリック教会がプロテスタントに対抗できるのはこの天使の軍団だけだという観念がこの崇拝の新しい考え方としてもたれるように なったのです。 キリスト教関連の書物の中では、聖ミッシェルは、よく剣と天秤をもっている姿で表現されています。 伝統と一般民衆の崇拝は、聖ミッシェルを騎士団の長にしてしまい、また、武器や天秤に関するあらゆる職業の取りまとめ役にしてしまいました。 しかし、鐘楼に聳える銅像は大天使の伝統的な姿を取り戻しています。 この像は、32mの新しい尖塔の先を飾りたいと考えていた建築家のヴィクトル・プティグランの要請で、 彫刻家のエマニュエル・フレミエによって!897年に製作されました。現在のこの像は1987年に修復されたものです。 |
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