愛媛 大洲 臥龍山荘 Garyu-sanso 8.April.2019 天空仙人の旅のかけら
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「壱是の間」 | |
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「霞月の間」 | 「清吹の間」 |
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「霞月の間」 | 「霞月の間」 |
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「肱川対岸からの不老庵」 | 「肱川対岸からの不老庵」 |
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「知止庵」 | |
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愛媛県大洲市411−2
411-2,Oozu-shi,Ehime
臥龍山荘 山荘の由来 この地は、古くから肱川の深い渕に立つ蓬莱山があり、その背後にはゆったりとした山容がある。 それを借景とした景観は、歴代藩主の遊賞地として厚く保護されていました。 明治期に入り、豪商河内寅次郎が、この地に十年の構想と四年の工期を費やして、 桂離宮、修学院離宮、梨本宮御常御殿などを参考に相談役の茶室建築家八木氏を中心に施工を地元大洲、 京都の名大工に。建物細部は最高の用材で千家十職に依頼して完成した名建築です。 2008(平成20)年12月、NHK「世界名建築100選」に挙げられ、 また2011(平成23)年にはミシュラン・グリーンガイド・ジャポンに一つ星として紹介されました。 また、2016(平成28)年7月には国の重要文化財に指定されました。 渡辺勘兵衛邸跡 【渡辺勘兵衛】 渡辺勘兵衛は、藤堂高虎と同じ近江国生まれで、秀吉に従い度々の戦に戦功がありましたが、 関ヶ原の戦いで敗れ、浪人となりました。 1601年(慶長六年)勘兵衛は、武将としての実力により高虎に二万石の大禄をもって召し抱えられ、 高虎の城代として大洲に入りました。1615年(元和元年)大阪夏の陣では高虎を助けて従軍し戦功をあげましたが、 高虎の命令を守らず怒りに触れ、藤堂家を去りました。 【勘兵衛邸跡】 渡辺勘兵衛邸の正確な位置は明らかではありませんが、 大洲藩加藤家二代藩主・泰興が「勘兵衛邸跡」と呼ばれる場所に下屋敷を建て居住していたことが、 藩主や家臣の逸話をまとめた『温故集』に記されており、この一帯であったことが分かっています。 また、現在も地名に「勘兵衛邸」の小字が残り、その名残を今に伝えます。 【臥龍山荘】 すぐそばの臥龍山荘は、もともと勘兵衛邸、 あるいは加藤家下屋敷の庭園跡であったと考えられています。 この地をこよなく愛した加藤家三代藩主・泰恒は、吉野の桜、龍田の楓を移植し、庭園に一層の風情を加え、 歴代藩主もここに遊賞したと言われています。 木蝋貿易で財をなした大洲出身の河内寅次郎は、肱川随一の景勝地であり、歴史あるこの地を選び、 明治三十年代、桂離宮などを参考に粋を集めた数奇屋を建築しました。 臥龍山荘 伊予の小京都といわれる城下町大洲。 この町の東端、肱川流域随一の景勝地”臥龍淵”に臨む三千坪の山荘です。 神楽山を背に、東南の冨士(とみす)・梁瀬の山々と肱川・如法寺河原の自然をとり入れた借景庭園は、 自然と人工の典雅な調和をみせます。 臥龍院、不老庵、知止庵の三建築は、それぞれに数奇をこらした逸品揃いです。 今や望むべくもない銘木と秀れた着想と名工達、それらが一つになって、建物の細部に見事に結実しています。 春夏秋冬、四季折り折りに深い趣きがあります。 忘れかけた茶の心、日本の心が今に生きつづけています。 臥龍山荘 観覧券 より 臥龍山荘 臥龍山荘は肱川流域随一の景勝地“臥龍淵”に臨む3,000坪の山荘で、臥龍院・不老庵はそれぞれ数寄をこらした逸品揃いです。 神楽山を背に、東南の冨士(とみす)・梁瀬の山々と肱川・如法寺河原の自然をとりいれた借景庭園は、 自然と人工の典雅な調和をみせ、四季折々に違った顔を見せてくれます。 「臥龍山荘」という名の由来は、大洲藩3代藩主加藤泰恒が蓬莢山(ほうらいさん)が龍の臥す姿に似ていることから 「臥龍」と命名したといわれています。 文禄年間、この地は藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛が広大な屋敷を構えていたところで、 「勘兵衛屋敷」の名で呼ばれていました。 その後、この地をこよなく愛した泰恒公は、吉野の桜・龍田の楓を移植し、 庭園に一層の風情を加えたため、歴代藩主もここに遊賞しましたが、 やがて手を入れられることもなくしだいに荒廃していきました。 現在の臥龍山荘は、明治の貿易商河内寅次郎氏が10年かけて築いたものです。 平成28年7月25日に臥龍院、不老庵、文庫の3棟が国の重要文化財に指定されました。 |
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