二本松 高村智恵子生家、智恵子記念館 Nihonmatsu Takamura Chieko Seika & Kinenkan 1.May.2008 天空仙人の旅のかけら
「二本松 高村智恵子生家」 | 「二本松 高村智恵子生家」 |
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Nihonmatsu Takamura Chieko Seika | Nihonmatsu Takamura Chieko Seika |
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「智恵子記念館」 | 「みちのくの親子」 |
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Chieko Kinenkan | Michinoku no Oyako |
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福島県二本松市油井字漆原町36
智恵子 愛と芸術の生涯 高村智恵子・年譜 ●1886(明治19年) 1歳5月20日、福島県安達郡油井村(現二本 松)に酒造業斎藤(のち長沼)今朝 吉、せんの長女として生まれる。 ●1901(明治34年) 16歳3月、油井小学校高等科を卒業。4月、福島高等女学校に編入学する。 ●1903(明治36年) 18歳 4月、 *日本女子大学校に入学。油絵に引かれる。 ●1907(明治40年)22歳日本女子大学校を卒業。洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所に学ぶ。 ●1911(明治44年)26歳9月、雑誌『青踏』が創刊されその表紙絵を描く12月、抑八重の紹介ではしめて高村光太郎のアトリエを訪ねる ●1912(明治45年)27歳光太郎が智恵子に与える詩を書き始める4月、太平洋画会展に油絵2点を出品6月、団扇絵展を開く9月、大吠写生行光太郎に出会う。 ●1913(大正2年)28歳9月、光太郎の後を追って上高地に行き、一緒に絵を描く。ここで結婚の意思をかためる。 ●1914(大正3年)29歳10月、光太郎詩集『道程』刊行。12月、駒込林町のアトリエで光太郎との生活を始める。 ●1915(大正4年)30歳窮乏の中での充実した二人の制作生活が続く。 ●1918(大正7年)33歳、5月、 父今朝吉が没する。その死は長沼一家にも智恵子にも暗い影を落した。 結婚以前から肋膜などに故障があり、病気勝ちで一年に3、4か月は郷里で過す。 ●1921(大正10年)36歳10月、光太郎が智恵子のために訳したヴェルハアラン詩集『明るい時』を刊 行する。201923(大正12年)38歳前年から翌年にかけてしばしばアンケートに答え、文章を発表する。9月、関東大震災。 ●1929(昭和4年)44歳たびたびの助言にも係わらず傾きかけていた長沼家が破産、一家は離散する。 ●1931(昭和6年)46歳8月、精神分裂症の最初の徴候が現れる ●1932(昭和7年)47歳7月、画室でアダリン自殺を計り未遂に終わる。 ●1933(昭和8年)48歳8月、「療養のため光太郎と東北の温泉めぐりをしたが、病状はかえって進行する。 ●1934(昭和9年)49歳5月、母や妹一家の住む千葉県九十九里海岸に転地。11月、ふたたびアトリエに戻る。 ●1935(昭和10年)50歳2月、南品川のゼームス坂病院に入院する。 ●1937(昭和12年)52歳この頃から病室での紙絵制作が始まる。 ●1938(昭和13年)53歳10月5日没。死因は久しく蝕んでいた栗粒性肺結核。遺作紙絵千数百点が残された。 ●1941(昭和16年)8月、光太郎が詩集『智恵子抄』を刊行する。
当時としては珍しく、美に馬かれ油絵作家として生きようと決意した、 このみちのくの女性智恵子は、日本の近代をおし進めた彫刻家であり詩人である高村光太郎との出会いによってその生涯を大きく区切る。 「検討するのも内部生命/蓄積するのも内部財宝」と光太郎がうたう生活のなかで、二人が求めた真実と愛。 しかし激動する日本の現実と矛盾のなかで、人間のありようを問い、 美の創造に心を砕く智恵子をおそった精神の痛み。 すべての患いを離れて、生涯の終わりに智恵子が達成した奇跡のような紙絵世界の輝きは、 見る者の心を捕らえて離さない。 光太郎の木彫にも比べられる高い造型性を持ち、自由で、豊かで、優しくて、時にはユーモラスでさえある作品群。 この命の讃歌、言葉なき恋歌は、いまも読みつがれる光太郎の詩集『智恵子抄』と響き合って、類いない相聞のうたを奏で、人生へのさまざまな想いに人を誘う。 命がけで守られた紙絵を除けば、智恵子の作品の大部分は、光太郎作品と共に戦火で失われた。 ゴーガンやセザンスに影響されたという油絵は、いずれも結婚以前と推定される三点の存在が確認されているに過ぎない。 しかし印刷された幾つかのカットや表紙絵の類は、紙絵につながる智恵子の感性を暗示する。 例えば重なる二つの四辺形の上の百合の構図は、明らかに紙絵のものと言っていい。 女性による最初の雑誌『青邨』のための、知性と情熱を併せ秘める立像は、 新しい女性の象徴として、強い印象を与えた。 求めに応えて書かれた散文や詩、たまたま残された書簡などは、絵画とは別に、 智恵子の内面の心情や苦悩を照らし出す。
多感な幼年時代を過し、愛してやまなかったふるさと・・阿多多羅 智恵子が愛してやまなかった「ふるさと......阿多多羅」その純朴さを残す町なみの中に智恵子を育くんだ「生家」が当時の面影をそのままに甦りました。 明治の初期に建てられた生家には、造り酒屋として新酒の醸成を伝える杉玉が下がります。 屋号は「米屋」、酒銘「花蔵」。二階にある智恵子の部屋からは今にも智恵子が降りて来そうな気配が漂います。 智恵子の生家 パンフレットより
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