木曽路 馬籠宿 28.July.2014 天空仙人の旅のかけら
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「道標」 | 「高札場」 |
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「藤村記念館」 | 「藤村記念館」 |
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「清水屋資料館」 | 「島崎藤村の墓」 |
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「藤村記念館」 | 「水車」 |
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岐阜県中津川市
中山道十一宿で難路最南端にある宿場町として栄えた馬籠宿。 全長600mの石畳の坂道に沿って、軒の低い格子造りの家並みが宿場時代の面影を残したいます。 明治28年の大火事により江戸時代からの建物は焼けてしまいましたが、町の人達の努力で、当時を彷佛させる町並みが復元されました。 文豪・島崎藤村の生まれ故郷としても知られ、名作「夜明け前」の舞台にもなったところです。 ≪歴史≫ ・街道の成立 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、翌年東海道の整備を手始めに順次交通網の整備に着手し、 幕府が管轄する道路を定めこれらの道路には多くの宿駅を定めた。 中山道は江戸日本橋を起点とし京都まで132里(約530km)の道程で、ここには69の宿場が設けられていた。 本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから別名を「木曽路」とも「木曽街道」とも呼ばれていた。 始めは《中仙道》と書かれていたが、享保元年(1716)に、「東の海沿いの道を東海道というように、 本州の中央を通る道だから《中山道》と書き改めるべきである」として、以後《中山道》と書かれるようになった。 しかし《なかせんどう》と読まれた。 中山道は東海道と共に江戸と京都を結ぶ大動脈であった。東海道の126里・53宿に比べて遠回りではあったが、 東海道は大井川の川留めで旅の行く手を遮られたり、桑名一宮間の船旅で海難の危険が伴ったのに対し、 中山道の旅にはこうした惧れがなかったことから、京都から江戸に向かう姫君たちはほとんど中山道を選んだ。 しかし、中山道も決して安全な道ばかりではなく、とりわけ馬籠宿と落合宿の間にある十曲峠は険しさで旅人をはばみ、 木曽の桟(かけはし)は危険な箇所として恐れられていた。 ‘かけはしや 命をからむ つたかづら’ 芭蕉
馬籠宿 中山道69宿のうち、木曾谷には11の宿場が置かれていた。馬籠は板橋を1番目とすると43番目の宿場になり、江戸からの距離は83里6町(333km)余りとなっていた。 街道が山の尾根に沿った急斜面を通っているので、その両側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴となっている。 宿場の中央には高貴な人の宿泊に備え「本陣」や「脇本陣」、荷物運搬の差配をする「問屋」が置かれ、旅人の利用する「旅籠」が18軒、 このほか「飯屋」や「馬宿」があって、行を交う旅人で賑わった。 明治25年(1892)に、木曽川沿いに国道が開設され、さらに明治45年(1912)には国鉄中央線が全線開通することにより、 宿場としての使命を終えた。 明治28年(1895)と大正4年(1915)の2度の大火で江戸時代の遺構の殆どを消失した。 中山道は、はじめ 「中仙道」 と書かれていたが、本州の中部山岳地帯を貫いている道路ということから、享保元年(1716)以降、 「中山道」 と書き改め、やはり 「なかせんどう」 と読まれた。 江戸と京都を結ぶ重要な街道で、その延長は132里(約550km)、ここには六十九の宿場が置かれていた。 この道路は東海道・奥州街道・甲州街道・日光街道とともに 「天下の五街道」 の一つといわれ、 参勤交代の際ここを通る大名は三四家と定められていた。 江戸幕府にとって西日本にある諸大名の動向対策と、これらの諸国を支配していくうえに 極めて重要な性格を持つ道路であった。
陣場 ここらあたり一帯の地名を「陣場」という。天正12年(1584)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った 小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていた。 家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。 故にここを「陣場」と呼ぶようになった。
高札場 江戸時代には、村人たちに法令などを徹底遵守させる目的で、板に墨書したものを掲示する場所を定めたが、 それは村の入口や庄屋宅の近くなど人目につき易い場所が選ばれ、藩の厳重な管理下におかれていた。 村人たちはその場所を「こうさつば」とか「ごはんきょうば」といった。 文字が読めない人が多いその当時、正月になると庄屋は村人をこの場所に集めて読んで聞かせ、 これを守るように言い聞かせた。 現在復元されているものは、正徳元年(1711)に交付された「御朱印・春薬等の定書き」や、 明和7年(1770)の「徒党禁止」の札などで、復元の際に読みやすい楷書に書き直した。
島崎藤村の墓 文豪・島崎藤村の生家跡があり、現在そこは藤村記念館となっています。 島崎藤村といえば詩集「若菜集」でデビューし、代表作ともいえる小説「破戒」「夜明け前」「初恋」や、童話もいくつか執筆している作家で、壮絶な人生を過ごしたことでも知られています。 藤村は神奈川県で「東方の門」を執筆中に亡くなりました。 故人の意思もあったことから生前に好んだ大磯地福寺の梅林の下に「土葬」で葬られ墓が設けられました。 しかし、島崎家は真言宗ではなく臨済宗妙心寺派なので一族の墓所にお墓が無いわけには行かないので 馬籠の永昌寺に島崎春樹(藤村)の遺髪と爪が分骨という形で埋葬し、親族としては移した形にしたのです。 藤村のお墓は、宿場町からは少し離れた永昌寺に眠っています。 こんもりとした丘の上にある永昌寺には、藤村をはじめ島崎家代々の墓や、夜明け前の主人公のモデルとなっている、 藤村の父親、島崎正樹のお墓もあります。 これまで島崎藤村は信州・長野県出身の文豪として扱われてきました。 ところが、この馬籠のある長野県木曽郡山口村が、平成の大合併により平成16年(2005)2月13日岐阜県中津川市と越県合併をしてしまったために、 馬籠宿は、岐阜県中津川市となり、藤村の出生地が岐阜県となってしまいました。 江戸時代の木曽地域は尾張藩領に属していましたが、廃藩置県によって名古屋県となり、筑摩県を経て長野県となりました。 島崎藤村が生まれたのは明治5年(1872)ですから、生まれたのは松本に県庁を置いていた筑摩県、 そして4歳の頃に長野県になったいうことになります。 島崎藤村の墓は、他に神奈川県茅ケ崎市中郡大磯町大磯1135の地福寺にもあります。 藤村の墓の傍らには、妻の静子さんのお墓もあります。 |
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