大内宿(おおうちじゅく)
    Ouchi-Juku  
         29.April.2008
       天空仙人の旅のかけら

大内宿 写真

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「福うさぎ」「おきあがり小法師」
Fuku UsagiOkiagari Koboshi
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大内宿(おおうちじゅく)

福島県南会津郡下郷町


大内の里から

伝説とロマンがたたずむまち


大内の由来

平清盛全盛期の治承四年(1180年)、後白河天皇の第二皇子である高倉宮以仁王は、 源頼政のすすめで諸国にいる源氏と延暦寺の反平家勢をあてに挙兵をしましたが、 この計画は予想より早く平家側に発覚し、同年六月二十四日、京都宇治川で合戦となりました。 源頼政は討ち死にし、高倉宮は行方不明。 また、流れ矢にあたって戦死したとも言われ、伝説はここから始まりました。 そして、伝説はロマンを秘めた歴史的背景と、伝承遺跡などと共に村人に深く根付いて語り伝えられています。

伝説によれば宇治川で敗れた宮は、奈良路から近江(滋賀県)東海道・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・ 上州沼田(群馬県沼田市)・尾瀬(群馬県利根郡)・檜枝岐・伊南・大内・只見を通って越後(新潟県)入り、 小川荘中山村(東蒲原郡上川村)で死去されたことになっています。 宮はニ十人ほどの供を連れて、越後国に住む小国右馬頭頼之を頼りに落ちのびてきて、大内に立ち寄り、 この里が都の風情に良く似ている所から、それまで山本村と呼ばれていたものを大内村と改められました。


宿場町の形成

大内は、江戸時代に下野街道の一宿場として栄え、明治以降、交通路の変化により開発を免れ、 昔の面影を今にとどめています。

この街道は、すでに鎌倉の時代から会津と関東を結ぶ街道としてかなりの往来がありました。 しかし、街道の整備は行きとどいていなかったようです。 各地の街道の整備に力を入れたのは戦国の時代からで、 全国統一の一環として行われました。 徳川幕府がこれを継ぎ、五街道の幹線やその付属の諸街道に対して支線の意味で、 脇往還、脇道などとも呼ばれていました。 下野街道は、一つの脇街道であって幹線に比べると小規模であり、街道も宿駅も不備であったようです。 また、大内は若松へは約四里半(16.5km)田島へは五里(20km) 当時の一日行程は約8〜10里であり、大内宿は中宿にあたり、 本街道の間宿にあたり昼食のための休憩の宿場でありました。

大内宿が形成されたのは、同じ街道筋にある川島宿が承応3年(1654年)にできたことから考え、 ほぼこれと同じ頃と考えられています。 江戸時代の街道整備は、徳川幕府の支配体制の確立と関連しており、 この頃すでに、五街道を初め脇街道なども整備されました。

大内宿 パンフレットより


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