鹿児島 明治維新のあしあと
         22.April.2019
         天空仙人の旅のかけら

城山

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西郷洞窟

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「西郷洞窟」「西郷洞窟」
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西郷隆盛洞窟

所在 鹿児島市城山町

一西南戦争 最後の司令部一

1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。 城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。 これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、 5日間すごしたこの洞窟を出ました。 桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。 この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った綿の単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。 その時流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。 西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、 政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。 首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。 2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。 7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。


敬天愛人

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「敬天愛人」「敬天愛人」
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西郷隆盛終焉の地

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「西郷隆盛終焉の地」「西郷隆盛終焉の地」
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西郷隆盛終焉の地

所在 鹿児島市城山町

一波乱の道。ここに尽きる一

メンズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜きました。 城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。 「晋どん、もうここらでよか。」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。 1877年(明治10)9月24日のことです。 西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、 7ヶ月もつづいた「西南の役」が終わったのです。

熊本城の攻防、田原坂の激戦に破れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散。 西郷以下の幹部は、宮崎県北の可愛岳を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、 故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。 岩崎谷の銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、 政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。 残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ。」と語り、いつまでも黙祷したということです。


西郷隆盛像

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「西郷隆盛像」
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所在 鹿児島市城山町4-36


小松帯刀像

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「小松帯刀像」「小松帯刀像」
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小松帯刀像

所在 鹿児島市山下町5−3

小松帯刀は1835(天保6)年、喜入領主肝付家の三男として生まれ、 20歳で吉利(日吉町)の領主小松家養子となり、小松帯刀と名を改めました。 子供の頃から学問や武芸にすぐれ、27歳で家老となり、西郷隆盛 大久保利通などを重要な役目につけました。 寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争を乗りきり、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍しました。 維新後も外交官など要職につきましたが、34歳で亡くなりました。 この小松帯刀像は、慶応3年(1867年)に、 15代将軍慶喜が、二条城に諸大名を集めて、政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきかどうかを問うたとき、 薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が「大政を奉還すべき」として他藩にさきがけて記帳したときの様子をイメージして造られたもので、 三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)の建つ、照国神社を向いて建立されています。


島津斉彬像

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「島津斉彬像」「照国神社」
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照国神社 島津斉彬像

所在 鹿児島市照国町19−35

御祭神 照国大明神 島津斉彬公

島津斉彬公(1809〜1858)島津家28代当主

島津斉彬公は、文化6年(1809)薩摩藩主の27代島津斉興公の嫡男として誕生なさいました。 母は鳥取藩主池田治道の娘賢承院です。 海外の文化に強い関心を示された曽祖父島津重豪公に可愛がられ育てられたため、 斉彬公も海外の情報・文化に精通されるようになりました。 そして、アヘン戦争(1840〜1842)で、アジアの大国・清国がイギリスに敗れたことから、 西欧諸国の植民地化政策を恐れ、斉彬公は、日本がひとつにまとまり、 強く豊かな国づくりを目指すべきだとお考えになりました。 そして、嘉永4年(1851)藩主になられると、鹿児島の磯に「集成館」と言う工場群を築き、 ここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・ガラスなどの様々な事業に取り組まれました。 また、人材育成のため教育にも力を注がれ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材も育て上げました。 斉彬公は、安政5年(1858)、世を去られましたが、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせるという夢は、 弟の島津久光公やその長男忠義公、さらに西郷隆盛や大久保利通ら多くの家臣の手で実現されました。

この斉彬公の銅像と、隣接の探勝園内にある久光公・忠義公の銅像は、 大正6年(1917)彫刻家の朝倉文夫(1883〜1964)によって作製されたものです。


大久保利通誕生の地

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「大久保利通誕生の地」「甲突川」
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大久保利通誕生の地

所在 鹿児島市高麗町

大久保利通 (1830〜1878)

西郷隆盛や木戸孝允とともに明治維新の三傑といわれる大久保利通は、 明治政府になってからは参議、大蔵卿、内務卿などの要職に就き、 事実上の日本の首相として、次々と新しい政策にとりくみ、 日本の近代化に大きな業績を残しました。 西南戦争以後は、駒場農学校を開設して、事業にものりだしましたが、 明治11(1878)年5月に紀尾井坂で刺客に襲われ、47歳で生涯を閉じました。


西郷隆盛誕生地

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「西郷隆盛誕生地」「西郷従道誕生地」
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西郷隆盛誕生地

所在 鹿児島市加治屋町

西郷隆盛誕生地

一身体も心も目玉も大きかった西郷さん一

「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と 土佐の坂本龍馬を驚かせた薩摩の「ウドメサア」(目の大きな人のこと) 西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加治屋町の郷中教育によって培われたといわれています。

1827年(文政10)西郷は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生(海軍大臣を勤めた従道は三男。) 貧しい生活の中で藩校造士館に通い、次第に下加治屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を現します。 鹿児島の町には独特の若者組織があり、町毎に区切られた郷中という単位で少年たちが集まり、厳しくしつけられるのです。

西郷は13歳のとき、右腕を負傷し武芸はあきらめましたが、 その分勉学に励み、二才頭として郷中の仲間の人望を集めました。 西郷の指導者としての有能さは、この郷中から多くの偉人が育ったことからもうかがえます。

17歳で郡方書役助という地方役人となり、農村を回り、農政についての意見をまとめました。 これが後に英明藩主といわれた島津斉彬の目にとまり、 やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなったのです。


大山巌誕生地

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「大山巌誕生地」
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大山巌誕生地

所在 鹿児島市加治屋町


東郷平八郎誕生地

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「東郷平八郎誕生地」「東郷平八郎誕生地」
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東郷平八郎誕生地

所在 鹿児島市加治屋町

東郷平八郎誕生地

海から来る敵は海にて防ぐべし

一薩英戦争が15歳の平八郎の運命を決めた一

薩英戦争に東郷家では父子4人がそろって出陣しました。 生麦事件(横浜市)の直談判のため7隻のイギリス軍艦が鹿児島湾に入ってきて、 計101門の砲口を鹿児島に向けていたのです。 1863年(文久3)7月2日、ついに戦闘が開始され、 力の差をまざまざと見せつけられた時、 東郷平八郎はじっと海上をにらみ、海軍への道を志した――といわれています。

平八郎もまた、多くの偉人たちが育った下加治屋町郷中の出身です。 1847年弘化4)に生まれ、仲五郎といった幼少の頃から、芯の強い子として西郷隆盛の次弟吉次郎に可愛がられました。

戊辰戦争では軍艦春日丸に乗り組み、次々と戦に参加。 維新後は海軍の留学生としてイギリスに学び、 帆船ハンプシャー号で世界一周を体験しました。 7年間学の最後に、グリニッジの造船所で日本軍艦の建造に立ち会い、 新鋭艦で帰国。 その後は一生を海軍に捧げ、ロシアのバルチック艦隊を全滅させ、「東洋のネルソン」としてその名を世界に轟かせました。


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